終わりと始まりの風──グレイト・ホワイト・ライト演奏会
金子智太郎
圧倒的なのは風の音だった。ストレートで、自然で、美しく、強く、心をかき立てるようなクールなメッセージをもたらす。人間のつくったどれほど洗練された音楽も、この自然な力強さ、美しさの前では萎えてしまうと思われた。永遠に、宇宙的に広がろうとする共演のタージ・マハル旅行団の音さえも、風の音のなかでは、たえだえに、とぎれとぎれに、生命を限られたもののようにあえいでいた•1。
グレイト・ホワイト・ライト演奏会は送風器が発する空気がマイクロフォンにぶつかるノイズに満ちていた。メンバーは機材とともに会場中央に位置し、周囲に4台のスピーカーと4台の送風器が外側を向けて置かれ、送風器口の手前にはマイクロフォンが固定された•3。これらを観客席が取りかこみ、壁際には投光器も置かれた。上演中、大西は送風器の変圧器を操作し、塩谷は投光器を操作した。浜田は4本のマイクロフォンを使って「アクション・ボイス」を演じた•4。カワスミについての記録は見つからなかったが、おそらく音響機材を操作したのだろう。以上のセッティングに、ゲストとしてタージ・マハル旅行団の演奏が加わった。当初は送風機と声だけの計画だったが、コンサート直前に「心配性になり」、彼らを招くことになったという。
観客は長時間のパフォーマンスの最中、かなり自由に行動していた•5。暗闇のなかで勝手に椅子に座り、空気の感触に身をまかせ、ときには機材を見にいき、会場を出入りして食事や雑談をした。舞踏評論家の市川雅はこの状況を「グレイト・ホワイト・ライトの手前勝手な演奏は演奏者だけでなく、観客をも自由にし、雑念を引っ下げて入ったり出たりさせてくれる」と表現した。そして、このパフォーマンスをウォーホルの映画やラ・モンテ・ヤングの音楽と比較して、「非現実と現実が同一地平に立つ永遠の時間が浮上してくる」と評した。
浜田はグレイト・ホワイト・ライトを「バンド」と呼んだ•6。コンセプトを考えたのは大西であり、建築家の塩谷が会場設計を担当した。浜田によれば「グレイト・ホワイト・ライト」はヒッピー用語でドラッグのフラッシュバックを意味する•7。岸記念体育会館でのパフォーマンスの後、「二年くらいはあちこちに行ってコンサートをしていました」と浜田は語ったが、詳しい記録は見つからなかった。同年には、ジャズ評論家の副島輝人と美術評論家のヨシダ・ヨシエが共同企画したイベント「グローバル・アート・ヴィジョン」に参加している。このときはパフォーマンスではなく舞台美術だけだったかもしれない•8。
美術、音楽、建築などが混ざりあうグレイト・ホワイト・ライト演奏会は、当時のいわゆるインターメディア作品と呼べるだろう。または、60年代後半より関心を集めた環境芸術作品とみなすこともできる。最年長の大西は60年代末からそうした作品を発表していた。4人が出会ったきっかけのひとつは、インターメディアと環境芸術の総決算、1970年の大阪万博だった。このころ、彼らは美術評論家の東野芳明、建築家の磯崎新、美術家の吉村益信といった万博の立役者らの下で活動していた。加えて、サイケデリック文化、ヒッピー文化が彼らのパフォーマンスの背景にある。インターメディア、環境芸術にしても、サイケデリック、ヒッピーにしても、万博をひとつの境として日本では流行を終えていった。そのため、グレイト・ホワイト・ライトはいわば万博の残響という側面をもっている。しかしこのパフォーマンスの録音には、60年代芸術と入れかわるようにあらわれる轟音のロック、そしてノイズ・ミュージックにつながる感性も聞こえる。
グレイト・ホワイト・ライトはいかに形成され、解体していったのか。上演前後のメンバーの活動をそれぞれ追ってみよう。
1936年生まれの大西清自は、武蔵野美術大学で絵画を学び、1960年代末から空気やヘリウムで満たした巨大なビニール風船を使った作品を発表した。一連の作品は当時「エア・アート」と呼ばれ、環境芸術の一種とみなされた•9。この時期から商業デザインも手がけるようになり、送風機が発泡スチロール粒を舞いあげるウィンドウ・ディスプレイや、スケートリンクの天井に吊るす巨大な風船を制作した•10。
1970年、市川雅が企画し、岸記念体育会館で開催された「エクスパンデッド・アート・フェスティバル」に参加。大西の風船に映像作家の飯村隆彦が映像を投影した。同年、国立近代美術館で開催された「現代美術の一断面」展には、植込や壁、人間を吹く送風器の空気を展示した。万博では東野芳明のプロデュースによって「万国博美術展」に展示された《ホーム・マイ・ホーム》に参加•11。団地の一室をかたどった建築物のなかに「マイ・ホームの裏側」をテーマとするオブジェを置くという作品で、吉村益信がコーディネーターを務め、浜田郷(剛爾)、映像作家の小林はくどうらも加わった。
グレイト・ホワイト・ライトの後、大西は同年、東京都美術館で開催された「第10回現代日本美術展」に《音況》を出品した。これは天井から吊るしたマイクロフォンを床に置いた3台の送風機で吹く作品である。一方、1972年の個展に展示されたのは、手や木の葉をはさんだシートから空気を抜いた状態をかたどった鋳造作品だった。1981年に『Works』を出版。レコード制作のためのテープ編集もこの時期に行われた•12。以後、ベルギーのゲントに拠点を移し、赤、黄、青の三色を混ぜてつくられた黒色が画面を覆う絵画を制作していった。
浜田剛爾は1944年に生まれ、東京芸術大学で彫刻を学んだ•13。卒業後に吉村益信と出会い、彼の下で大阪万博せんい館のオブジェを制作した。そして、吉村が万博をきっかけに設立した会社「貫通」に、カワスミカズオ、小林はくどうとともに参加。万博では、お祭り広場で開催されたプログラム「ビームで貫通&マッドコンピュータ」を担当した。このプログラムは、横浜のモーターサイクル・クラブ、ケンタウロスのショー、内田裕也とフラワー・トラベリン・バンドのライブ、さらにロボットや照明を組み合わせたイベントとして計画されたが、会場に大混乱を招くことになった。「貫通」は万博後も赤札堂上野店ABABなどのデザインを手がけたが、1年余りしか継続しなかった•14。
浜田とタージ・マハル旅行団との関係は深く、彼らの渡欧のさい、彼が渡航費を集めるためのコンサートを開いた。「現代美術の一断面」展にフラワー・トラベリン・バンドを招いて起きたトラブルが一因となって彼自身も1972年に渡欧。同年にデュッセルドルフでヨーゼフ・ボイスと出会い、ベルリンで彼の最初のパフォーマンス《嘆きの壁》を行った。帰国後も日本のパフォーマンス・アートの先駆者の一人として活動を続けた。
塩屋光吉は1943年生まれ。大学で建築を学び、磯崎新の下で万博のお祭り広場の設計に参加した。グレイト・ホワイト・ライトに参加後、インテリア・デザイナーの夫人、塩谷絢子とともに有限会社「アースワーカーズ」を設立。新潟県立自然科学館、明石天文科学館など、各地の科学館の設計、展示ディレクションを務め、また地域開発や吉村益信アトリエの設計など幅広い事業に携わった。他方、1977年に浜田剛爾が主催したイベント「スポーツと嬉遊曲: 十七人のパフォーマンスによるエリック・サティ」にパフォーマーの一人として参加した•15。
塩谷夫妻が作成した文化施設の構想のひとつに「音の図書館」があった•16。「音文化を地域的な視野でみつめ、しかも全感覚的な切口で総合的にとらえた音文化の集大成」と称するこの図書館は、5つの部屋からなる施設として描かれた──音響メディアを集めた「音をストックする場所」、コミュニケーションの場となる「音とめぐり会う場所」、オーディオ設備が整った「音を味わい消化する場所」、さまざまな楽器が揃う「音を体験する場所」、そして「音を科学する場所」。
1947年生まれのカワスミカズオは音楽教育を受けて育ったが、後に美術に向かい、篠原有司男の下で活動するようになった•17。万博では浜田とともに吉村のオブジェ制作に関わり、「貫通」に参加。1971 年の「第10回現代日本美術展」には、床に並べられた16台の小さなスピーカーから心臓音を流し、鼓動に同期して電球が明滅する作品《Great Vibration》を発表した。72年にはプラスチックによる成形版画を展示する個展を開催。後にニューヨークに移住し、各地で作品を発表した。日本でも1989年にスピーカーを平面に埋めこみ波音を流す《Montauk》、2005年に打楽器の音と自身の心臓の映像を組み合わせた《Transmigration》を展示している。
1970年から71年にかけて「貫通」メンバーが雑誌『店舗デザイン』に寄稿した連載「状況芸術」のなかで、カワスミは音響に関する記事を担当した•18。「無音からヴァイブレーションまで」という副題がついた彼の記事では、可聴範囲内外の音をコントロールして、人間の観念をゆさぶろうとする「ヴァイブレーション・プロジェクト」の計画が語られた。具体的なアイデアとして、ヴァイブレーターを組みこんだソファーやベッド、浴槽の図が掲載された。
こうして四人の略歴を見ていくと、共通点よりも違いのほうが目につく。当時の一般的な動向以外に、彼らが特殊な関心や動機を共有していたと推測するのは難しい。パフォーマンス以前に大西や塩谷が音に関心をもっていたかどうかすら定かではない。しかし、グレイト・ホワイト・ライト演奏会後ほどなくして、メンバー全員がひとつの転機を迎えたようだ。以後、四人が集まって作品を生みだすことはなかった。パフォーマンスの上演が彼らにとって転換の一因になったと推測するよりも、1970年代前半の日本社会が変化の時期だったと考えるほうが自然だろう。このころに日本の戦後高度経済成長はかげりを見せはじめた。グレイト・ホワイト・ライトが生んだ風の吹き荒れる洞穴はこの転換期のサウンドスケープだった。