論文 2


堀浩哉の一九七〇年代のパフォーマンス──日本における一九六〇年代末の学生運動以後の美術

金子智太郎

『カリスタ』第26号、2019年、4-46頁。
※図版は省略しています。[PDF]を参照してください。


要旨

 本論文は堀浩哉が1970年代に展開したパフォーマンスの系譜をたどり、その意義を検討する。日本の1960年代末の学生運動において、美術家共闘会議(通称美共闘)議長として活動した後、堀はさまざまなテクノロジーを使用するパフォーマンスを上演していった。彼のパフォーマンスは学生運動時代に育んだ運動論に由来する彼の芸術論と結びついていた。しかし、堀は77年のパリ青年ビエンナーレにパフォーマンス部門の日本代表として参加してから、パフォーマンスを休止し、絵画に専念することになる。本格的なパフォーマンスの再開はおよそ20年後の98年であり、それから現在まで継続している。
 本論文は堀が所有する作品の資料、録音、映像などの調査を通じて、彼の70年代のパフォーマンスの詳細を描きだそうとする。また、美術理論家としても知られている彼の当時の論考を考察し、作品と理論の結びつきを明らかにする。さらに、以上の議論にもとづいて、堀のパフォーマンスと絵画の関係を再検討する。堀のパフォーマンスはよく絵画のための準備と見なされてきた。一般的に、70年代日本美術におけるパフォーマンスやテクノロジーを用いた作品は、80年代のための「足がかり」と考えられがちである。本論文はこうした理解を問い直し、70年代日本美術の再解釈に向けた議論を提起したい。



 峯村敏明は一九八七年の評論「もの派はどこまで越えられたか」の一節「システムと実践──ポストもの派の足がかり」で、堀浩哉らの七〇年代半ばまでの作品を「前芸術」と評した(1)。峯村によれば、「ポストもの派」とはもの派と対立しながら、もの派を継承した動向であり、堀ら団塊世代を第一世代とする。七〇年代前半の彼らの作品は、「作品以前の芸術の原点、日々の行為の集積と反復のうえに底辺から築かれるべき芸術の原理性を指し示しえた」が、それでも「「前芸術的」代替行為」に留まるとされた。しかし、彼らは七〇年代後半から「本来の課題たる芸術行為」である絵画と彫刻に取りくみ、八〇年代には「確固たる基盤を築き終えていた」という。

 峯村は七〇年代前半のポストもの派にはさまざまなテクノロジー──写真、コピー、映画、タイプライター、テープレコーダー、ヴィデオなど──を使用するという特色があると指摘し、これらを「システム」と呼んだ。堀浩哉が七〇年代に展開したパフォーマンスでもこれらのテクノロジーが重要な役割を果たした。テクノロジーを用いる七〇年代の作品を絵画の足がかりとみなす議論は、後にヴィデオ・アート論でもくり返された。天野一夫は九二年に、美術家がヴィデオを用いて制作した七〇年代の作品を次のように評した。「彼らはそこで、絵画形式や見ることの構造などの根本的な再考をしながら、再び描くことへの制作への足がかりを得ようとする」(2)。

 堀浩哉は六〇年代末に美術大学の学生による学生運動組織、美術家共闘会議、通称美共闘の議長を務めた後、七七年までさまざまなテクノロジーを使用するパフォーマンスを展開した(3)。本論文は彼のこのころのパフォーマンスと言説を詳しく検討し、峯村のように絵画と彫刻の準備としてとらえるのではなく、学生運動の経験をふまえてかたちづくられた作品と芸術論として理解しようとする。そして、堀にとって七〇年代がいかなる意義をもっていたのかをあらためて考えたい。

 四七年生まれの堀は多摩美術大学の学生だった六九年に石内都、彦坂尚嘉、宮本隆司らと美共闘を設立し、議長となった。七一年には田島廉二、刀根康尚、彦坂、山中信夫と美術運動組織、美共闘REVOLUTION委員会を結成した。このころより堀はテープレコーダー、ヴィデオ、タイプライターなどを用いるパフォーマンスを発表し、七七年にはパリ青年ビエンナーレに参加した。しかし、彼はこれを機にパフォーマンスを休止してしまう。そして、次の二〇年間は絵画に専念し、特異な層状の絵画空間をつくりあげた(4)。彼がパフォーマンスを本格的に再開したのは九八年だった。以降、堀えりぜ、畠中実とのユニット「ユニット00」や、堀えりぜとのユニット「堀浩哉+堀えりぜ」として現在もパフォーマンスを続けている。

 パリ青年ビエンナーレの期間中、パリのギャルリー・ファリデ・カドで上演した《MEMORY-PRACTICE (Reading-Affair)》(以下《Reading-Affair》)は次のようなパフォーマンスだった(5)[図1]。会場に白い布が敷かれ、そこに白い机が置かれる。顔を白く塗り、白い服を着た男女二人が机に座り、当日の新聞を一文字ずつ交互に読みあげる。机の手前の床に二台のオープンリールテープレコーダーがある。机上のマイクにつながる一台のレコーダーは二人の声を録音する。声を収録したテープはもう一台のレコーダーへと伸び、このレコーダーはパフォーマーが発した声を少し遅れて再生する。再生された声はマイクに拾われ、こだまのように小さくなりながら何度も再生される。さらに、マイクとレコーダーのあいだに少しずつハウリングが生じていく。これが声を覆うほど大きくなると、レコーダーの音量が調節される。このパフォーマンスはテープの録音可能時間が終わるまで、二時間ほど続いた。

 本論文は堀が大学入学からパフォーマンスの休止までに発表した主な作品と文章を年代順に考察していく。堀は七〇年代より同世代の中心的な作家のひとりであり、その作品は峯村のポストもの派論においても重視された。また、学生運動のころから多くの文章を発表し、理論家としても知られる彼には自作についての言及も少なくない。近年もその経歴をふりかえるインタビューで、七〇年代について多くのことが堀自身の口から語られた(6)。しかし、彼のパフォーマンスについてこれまでまとまった研究がなされてきたとは言いがたい。その原因のひとつはパフォーマンスの記録が十分に公開されていないことだろう。また、多くのパフォーマンスの上演は一回だけで、その観客はごく少なかったことも原因であろう。そこで、筆者は堀の許可を得て、彼が所有する資料、録音、映像を調査した。また、堀の七〇年代の理論と作品の関係はまだ、代表的なもの以外は十分に検討されていない。彼の文章は美術だけでなく演劇、漫画、音楽、プロレス、時事などさまざまな対象を取りあげる文化論だった。本論文はそのなかの彼のパフォーマンスと結びつく芸術論に焦点を合わせ、作品との関係を考える。

 第一節は堀の学生運動論と、それがいかに芸術論につながったのかを論じる。第二節は彼の芸術論から四つの論点を取りあげ、それらとパフォーマンスの始まりを関連づける。第三節はまずテクノロジーをめぐる堀と峯村の認識を対比して理解する。次に堀のパフォーマンスの展開を彼の芸術論に関連づけながらたどる。第四節はパフォーマンスと絵画の共存、さらにパフォーマンスの休止の経緯を概観し、第五節はパフォーマンスと絵画の関係を検討する。結論ではあらためて峯村のポストもの派論と比較しながら、堀のパフォーマンスの意義を考える。

 なお、堀はよく七〇年代には「パフォーマンス」という言葉が現在のように使われていなかったと指摘する(7)。当時は「ハプニング」や「イヴェント」という言葉が一般的であり、堀自身は「ACT展」や「PRACTICE」という言葉を使った。しかし、彼はパリ青年ビエンナーレで初めて「包括的な概念としてのパフォーマンスという言葉に出会」い、それ以降は便宜的に「パフォーマンス」という言葉を用いている。本論文もこれに倣うことにする。
 

1 学生運動論から芸術論へ

 一九六八年から盛んになった日本の学生運動には美術大学の学生も加わった。美共闘は学生が日頃から感じていた社会、大学、美術館、公募展などに対する不満を直接行動というかたちで表現した。美共闘に対する評価はさまざまである。例えば、針生一郎は「日宣美のようにやや近代化された組織には、自己解体をうながした反面」、「直接行動主義が管理警備体制のいっそうの強化をもたらした事実も否定できない」と指摘した(8)。美共闘や学生運動そのものの意義は堀のパフォーマンスを主題とする本論文の議論の範囲を越えている。本節はあくまで彼の学生運動論の要点とそれがいかに芸術論に結びついたのかを見ていきたい。

 まず美共闘結成までの堀の動向をたどろう。彼は多摩美術大学絵画科油画専攻に入学した六七年に同大学の演劇研究会に入り、また同年に友人たちに呼びかけて《自己埋葬儀式》というパフォーマンスを行った(9)。彼らは白いドレスを着た等身大の首のない人形を吊りさげ、葬列のように東京駅から銀座まで歩いた。六八年に堀はまず演劇研究会のなかに自らが主宰する劇団「義理人情」を立ち上げた。そして、デビュー作となる《鑑賞を拒否する》を制作した[図2]。堀はこの作品を翌年の「国際青年美術家展」に応募したものの落選し、同年に上下を逆さにして「現代日本美術展」に応募したところ入選した。これは等身大ほどの長方形の木枠に麻布を貼った二点組の作品である。最初は下半分だけに麻布を貼り、上半分は布がめくれて木枠が見えた。しかし、上下を逆にしたため、木枠に布が垂れるかたちになった。

 堀が学生運動に参加したのも六八年からだった。六九年に「現代日本美術展」から返却された《鑑賞を拒否する》は多摩美術大学に築かれたバリケードの一部になった。同年六月にバリケードの内部で開催された「造形作家同盟展」では、絵画の支持体のみをさらけ出すような作品《壁・木枠》などを発表した。七月に美共闘が結成され、堀はこれより二年ほど作品発表を休止した。

 堀が当時ガリ版刷りで発表した文章には、後の表現の軸になる姿勢が運動論のかたちであらわれていた。彼は美共闘の活動を総括する文章において、全共闘がその運動自体を目的化し、求心性を生み、このことが運動の限界になったと指摘した(10)。学生運動は本来中心や媒介のないものであり、外部に広がろうとする遠心性や、名づけられない経験を重視する直接性を求めたはずだった。そのため、堀は全共闘を目指さないという姿勢が必要だったと論じた。

 他方、堀は運動において美術家という立場の外部に出てしまうことを批判した。

僕等が、美術家に留まる必要はないし、僕等はいかなる場に、身を置く事も出来るだろう。そして今、僕等のあらゆる問いかけは、名付けられる以前の僕、僕等からしか発せられないのだ。が、しかし、僕等は「名前」からのがれる事が出来るだろうか。「美術家」からはのがれ得たとしても、この世のすべての名前からのがれることは出来ないだろう。この世界に生きている僕等は、与えられた名前を逆手にとってしか、具体的に闘う事は出来ないであろうと思います。今、美術家と呼ばれているなら、そこが戦場だ(11)。

彼が美術家という名前から逃れられないと考えた理由のひとつに、六〇年代の前衛芸術に対する失望があった。堀は後に赤瀬川原平の「千円札裁判」(一九六五−六七)を傍聴した経験について語った(12)。赤瀬川を弁護するために現代美術史が参照されたこの裁判に接して、初めは「同時代のアートを本当に強烈に最初に意識した」という。しかし、美術の外部を目指そうとしたはずの前衛芸術が「これは芸術である、だから無罪だ」と主張することに次第に違和感を感じていった。六〇年代末には美共闘の批判対象だった日本万国博覧会の準備に前衛芸術家が加わった。堀は前衛芸術が美術の外部に出ようとしながら、実際は美術という名前に守られていると考えた。そこで、彼はあえて美術家という言葉を運動組織につけることを選んだ。

 名づけられる以前のものを目指しながら、名前から逃れることはできないことを自覚すること、すなわち、外部を目指しながら、内部にいることを引き受けるという姿勢が堀の運動論の根本だった(13)。後に詳しく論じるように、この姿勢は七〇年代に彼の芸術論の軸になり、内部と外部を分ける境界線上に位置すること、バリケードそのものになることと表現された。さらに、彼は名前を「制度」や「物語」と言いかえ、名前をはぎ取り、はぎ取ることでつけられた名前を再びはぎ取ることのくり返しを「解体」と呼んだ(14)。

 七一年に第一次美共闘REVOLUTION委員会が結成され、その運動としてメンバーは一年間、美術館や画廊といった制度的な場所の使用を中止すると発表した。また彼らは機関誌として、理論をあつかう『美術史評』を同年二月、作品を紹介する『記録帯』を翌年創刊した。『美術史評』創刊号の堀の文章「表現と芸術のあいだ Ⅰ」には運動論から芸術論への展開が見られる。堀はその冒頭から「制度」を「名付けによってしか成立しない世界総体のこと」と述べた(15)。社会や美術という制度は法や美術館を通じて、直接的に経験される労働や表現に名前をつけ、それらを捨象してしまう。堀はこうした制度に立ち向かう方法として、パレスチナ解放人民戦線のハイジャック犯による宣伝に注目した(16)。それは実際の航空券を模し、その文面に「目的地=革命空港」といったハイジャック犯のメッセージが挿入された。堀はこの宣伝を、制度の言説の内部にいることを引き受け、「敵の表カンバンを逆手に」とる方法の示唆ととらえた。

 七一年四月、美共闘REVOLUTION委員会のプロデュースの下、堀は渋谷スペースラボラトリーHAIRという小劇場で、学生運動以後初めてとなる個展「REVOLUTION」を開催した[図3]。展示プランによれば、本作品は三つの「部分」、天井、床、壁と、四つの「要素」、光、音、人間、水からなる。堀は天井にビニールシートを貼り、上から水を撒く。床に木箱を八つ並べ、なかに新聞や雑誌などを入れる。会場の壁にクレヨンで文字を書いた紙を貼る。この文字は「壁」という言葉を説明する辞書の文章を一文節ごとに区切り、すべての区切りに「REVOLUTION」という言葉を挿入したものである。さらにライトの光、「くり返される音楽の部分」と「切り忘れたラジオの音」が会場を満たす。堀自身は委員会メンバーとともに会場に滞在し、木箱にジョウロで水を撒く。

 本作品の空間はかつて堀らがいたバリケードの内側や、演劇の舞台美術だけでなく、万博を飾った環境芸術も思わせる。しかし、堀は展示プランに、その空間のそれぞれの部分が「顕在化」、「異化」することによって「環境であることを自ら否定している」と記した。学生運動を想起させる文字が書かれた壁は、社会と美術の制度を表現していると考えられる。堀は壁をあらわす文章にメッセージを挿入することで、壁という名前を解体しようとする。堀の芸術論はこのように作品に具体化されていった。
 

2 芸術論からパフォーマンスへ

 パフォーマンスがはじまる前後の七一、七二年に堀は多くの文章を発表し、芸術論を展開した。本節はまずこの時期の文章から、新たに提示された四つの相互に結びつく論点──二重権力、相互規定的関係、日常という物語、境界線上の時間──を考察する。そして、これらの論点がどのようにパフォーマンスと結びついたのかを検討する。

 堀は七一年十月の「表現と芸術のあいだ Ⅲ」において、前衛芸術を「二重権力」と称した(17)。制度としての美術の外部を目指しながら、実際は制度に守られ、その内部に別の制度をつくる状態が「二重権力」とされる。連合赤軍による七二年二月の「あさま山荘事件」の後、この文章が発表された時期には連合赤軍が「山岳ベース事件」を起こしていたことが発覚した。後述するが、堀は九八年にパフォーマンスを再開したとき、連合赤軍を二重権力の一例と見なし、彼らの言葉を作品に取りいれた。

 この文章ではまた写真家の中平卓馬の言葉を参照しながら知覚論が展開された(18)。ここで、堀は美術表現が見る―見せるという「契約関係」によって支えられていると論じた。見る者は名づけられたものを確認し、見られるものは名づけられたものを差しだす。この関係にもとづいて多様な表現のスタイルが形成される。しかし、堀はこうした見る―見せる関係とは異なる、見る―見返すという「主体とものとの相互規定的な関係」の意義を訴えた。名づけられていないものを前にしたとき、それを見る者は自らの知覚を問い直さなければならない。すなわち、名づけられていないものに見返される。この関係は名前が解体される瞬間に生じるものの、ものはすぐに名前に組みこまれてしまう。筆者の考えでは、このような相互規定的関係は堀のパフォーマンスにとって本質的なものになっていった。

 七二年二月に発表された「日常の解体と獲得」では、これまでの名前や制度をめぐる議論が「物語」と「日常」の関係を通して再考された。堀によれば、戦後日本のさまざまな物語──民主主義でもプロレスや漫画でも──は六〇年代にかけて次第にリアリティを失い、現在は「日常という物語」だけが残った(19)。大阪万博はこの日常という物語の組織化だった。堀はこのことをふまえて、物語を解体し、名づけられない日常そのものを獲得しようと主張した。そして、日常という物語を解体するためには非日常をめざすのではなく、物語と結びついた日常を解体する必要があると考えた。

 同年五月の「とぎすまされた境界線」は、七〇年に三里塚闘争のさなかで開催された野外音楽祭「日本幻野祭」のレポートとして書かれた。堀がこの音楽祭に見たのは弛緩した二重権力の「場」だった(20)。そこで、彼は場をつくることより場の境界線上に位置することが重要であると主張した。また、場という物語のなかで線的に流れる時間──過去、現在、未来と連続するフォークソングの詩のような──とは異なる、境界線上に流れる時間を奪取しようと論じた。堀はこの時間についてここでは詳しく説明していない。しかし、これは彼のパフォーマンスによって具体的に表現されていったと考えられる。

 堀が七二年七月から始めた「ACT展」シリーズは彼の最初のパフォーマンスだった。《ACT展 No.1》は実現せず欠番となり、シリーズは《No.2》から始まった[図4]。堀はにれの木画廊の壁面に沿って木枠を設置し、そこに大きな綿布を二枚掛ける。そして、布を会期が終わるまで動かし続ける。ときには木枠に絡ませ、床に落とし、画廊の外に出すこともある。壁際の木枠は堀が造形作家同盟展で発表した《壁・木枠》を思わせる。光田由里はこのパフォーマンスを《鑑賞を拒否する》の発展形と解釈した(21)。堀は八八年に本作品をふりかえり、こう語った。

きたるべき位置のため“act”(PRACTICE)をくり返し要求しつづける美術。しかし、きたるべき確たる位置はついに見つからないだろうという予感と共にくり返されるそのただ中で、私のパフォーマンスははじまったのです(22)。

目指すものを探し続けるという方法は彼の名前、制度、物語をめぐる議論と結びつく。堀はそれらの外部を目指しながら、内部にいることを引き受けたからである。この方法は過去から未来へと線的に発展する時間ではなく、何度もくり返されるという境界線上の時間のありかたを示していると考えられる。

 パフォーマンスの始まりと同時期に、堀は絵画にも取り組みはじめた。七二年十月に制作された《白いクレヨン》は、四色刷りの雑誌のグラビアを白いクレヨン一本で塗りつぶす作品である。この作品は黒、赤、青、黄色のクレヨンで同じことを行う《四本のクレヨン》に展開し、翌年三月の「京都アンデパンダン」展に発表された。クレヨンは先に《REVOLUTION》の壁の文字にも使用されていた。また《白いクレヨン》の制作と同月の『美術手帖』の特集「紙面開放計画」で、堀は官能小説の各文節のあいだに「REVOLUTION」を挿入する作品を発表した(23)。

 七二年十二月にアトリエ・シノンで上演された《ACT展 No.3》は堀が最初に発表した、テクノロジーを用いるパフォーマンスである(24)[図5]。会場には《No.2》で使用した布が無造作に敷かれ、中央に白く塗られた机と椅子が置かれる。周囲の箱や電話なども白く塗られ、部屋の奥に塗料缶が積まれる。机に本とカセットテープデッキが置かれ、堀が当時座付き作家を務めた劇団「演劇団」の役者、悪源太義平が顔を白く塗り、白い服を着て座る。悪源太はまず本を一文節読み、デッキの再生ボタンを押す。デッキはテープに録音された堀の「REVOLUTION」という声を再生する。停止ボタンを押し、次の一文節を読む。この一連の作業が三日間続けられた。本作品は《REVOLUTION》の壁や「紙面開放計画」の作品の音声版である。

 記録メモや写真から、堀が本作品の環境に気を配っていたことがわかる。観客はまず長い階段を昇り、五階の一室にたどり着く。悪源太は部屋の奥の窓に背を向け、机に座っている。開け放たれた窓の向こうには首都高速が通り、大きな交通騒音が響く。窓からは自然光が差しこむ。それに対抗するかのように、照明が悪源太を正面から照らす。本作品の録音では悪源太の声、堀の声、停止ボタンを押す音、交通騒音が混ざりあい、図と地の関係が何度も入れかわる。文章の意味が解体されるにしたがい、音の秩序が乱れて環境音の存在感が増していく。言葉の意味が再び意識されると、音の層が回復する。

 《ACT展 No.4》は七三年二月に田村画廊の展示室と事務室を使って開催された(25)[図6]。このパフォーマンスはまず、事務室にいる二人の出演者が任意の本を一文節ずつ交互に読む。隣にいる堀がそれを聞き、読まれた文字数の数字をタイプライターで記録する。タイプライターの用紙がヴィデオで撮影され、画像だけがリアルタイムで展示室のモニターに映される。展示室の机に座るもう二人の出演者は、モニターの数字と同じ文字数の単語を手元の本から切り抜き、原稿用紙に貼る。この一連の作業が二〇分ごとに休憩を挟みながら二日間続けられた。

 本作品は堀自身の言葉を挿入するのではなく、テクノロジーを用いて変換するというかたちで、任意の文章の意味を解体するパフォーマンスである。事務室で読まれた文章の意味は展示室の出演者にはまったく伝わらない。しかし、切り抜かれた単語には元の文章とは異なる意味がある。さらに、展示室の作業には出演者の意思が介入する余地があり、この意思は単語に意味を加える。堀のパフォーマンスにおける意味の解体は最後までたどり着かず、《ACT展 No.2》のような終わりのない反復を予感させる。
 

3 テクノロジーの意義と、相互規定的関係

 七三年五月、美共闘REVOLUTION委員会が中心となりピナール画廊でグループ展「〈実務〉と〈実施〉・十二人展」が開催され、堀は新たなパフォーマンス・シリーズ「調書」を発表した。この展覧会には峯村敏明も企画委員のひとりとして関わった。彼は遅くとも同年にはポストもの派論につながる「システム」をめぐる考察に取りかかった。一方、《ACT展 No.3》以降、堀にとってもテクノロジーはパフォーマンスの重要な要素になった。本節はまずテクノロジーをめぐる峯村と堀の議論の対比し、堀の認識を明らかにする。次に「調書」シリーズの考察を通じて、先に説明した「主体とものとの相互規定的な関係」をあらためて検討したい。

 峯村がシステムをめぐる彼の思考をまとまったかたちで発表したのは、七三年の評論「「繰り返し」と「システム」──“もの派”以後のモラル」と七四年の「生きられるシステム」だった。前者は、もの派の作家が一回性と反システムを重んじるのに対して、「もの派以後」の作家はくり返しにもとづくシステム──ここではインストラクション──を作品に取りいれると論じた(26)。後者は、作家が用いるシステムは「もっぱら既存の、そして多少とも公知の現実のシステムと連動」していると指摘し、このことを「借用されたシステム」という言葉で表現した(27)。ここで、峯村はシステムを非常に幅広く、現実をさまざまなかたちで律するルールや秩序ととらえた。こうして始まった彼のシステム論は七〇年代後半にシステムから絵画と彫刻への移行という議論に展開した。七八年の「芸術の自覚──媒体の構築に向けて」は、堀らを「第一「脱もの派」世代」と呼び、この世代が七〇年代前半に「芸術媒体を再構築するためのいわば潜伏期の作業」として「イヴェント、映像、記録、オブジェ等さまざまな試み」を手がけたと論じた(28)。そして、本論文冒頭で参照した八七年の評論ではポストもの派の第一世代が「底辺から、原理から、芸術行為を積み上げてゆく」ために「借用システム」を用いたと主張した(29)。

 峯村にとってテクノロジーを含むシステムは絵画と彫刻を再構築する手段だった。そして、彼は後述する堀の絵画《LINE-PRACTICE》(一九七八)をそうしたシステムを用いた作品のひとつと見なし、アメリカのコンセプチュアル・アーティスト、ソル・ルウィットの作品と比較した(30)。しかし、堀はこの比較をこう批判した。「ルウィットのように、外在的な「システム」に依存し、それ自体を制作原理とするものと、私のそれとはまったく異質のものなのである」(31)。筆者の考えでは、この文章は堀の絵画について述べているものの、パフォーマンスにも当てはまるだろう。

 それでは、堀自身はテクノロジーについていかに語ったのか。彼は七三年一月の文章「「制度」の言語と「運動」の言語」でテクノロジーの意義に言及しながら、李禹煥と中原佑介の芸術論を結びつけた(32)。この議論はテクノロジーをめぐる堀の理解をあらわしているだけでなく、後に述べるように、彼のパフォーマンスの方法にも関わっていったと考えられる。

 李は近代を、人間が世界のさまざまな対象を表象することで──堀の言葉では、ものを名づけることで──支配しようとする時代と見なす(33)。そして、テクノロジーは世界を表象するための第一の手段である。しかし、テクノロジーは「自己運動化」するため、人間は表象と対象の「飽和」に直面してしまう。李はこうした近代の危機を避けようと、世界との瞬間的な出会いを重んじた。一方、中原によれば、現代美術は美術の概念──堀の言葉では、制度としての美術──を拡大する傾向があり、美術の概念は実際のものとしての作品から次第に分離してきた(34)。そして、概念芸術ともの派はそれぞれの方法で美術とは何かを提起し、分離をさらに広げようとした。堀はこのような両者の議論を結びつけ、テクノロジーが招いた表象の危機を、美術の概念とものの分離の重要な要因と見なす。そして、美術の概念とものの分離をより徹底させるべきだと主張する。堀の考えでは、テクノロジーと距離をとろうとするもの派と概念芸術は、結局は美術の概念に組みこまれてしまった。

 堀はこの議論を発表したのと同時期に「ACT展」シリーズで、社会や美術の制度を表現する任意の文章を解体するためにテクノロジーを使用した。テクノロジーをめぐる堀の理論と実践は、美術の再構築のためにシステムが用いられたと見なす峯村の理解と対照的である。峯村が考えるシステムは普遍的、中立的であるのに対して、堀はテクノロジーを近代の危機に関連づけた。そして、制度の解体を表現するためにテクノロジーをパフォーマンスに取りいれた。なお、堀は六〇年代の環境芸術を「テクノロジー礼賛」として批判し、またヴィデオによるコミュニケーションが「権力の分散」につながると考える議論にも懐疑的だった(35)。

 「〈実務〉と〈実施〉・十二人展」で発表された《調書 Vol.1》はテープレコーダーと和文タイプライターを使用するパフォーマンスである(36)[図7]。堀は会期中毎日会場を訪れ、机に座る。机にはエンドレステープを置いたオープンリールテープレコーダーと和文タイプライターがある。堀は訪れた時間をタイプで記録し、持参した任意の本を読んでエンドレステープに録音する。朗読が終わったらエンドレステープを再生し、タイプで本の題名、録音の開始、終了時間、会場を去る時間を記し、その紙を壁に貼る。

 堀は「調書」シリーズの発表当時、そのテーマは「日常」であると示唆した(37)。このシリーズについて理解するには、「表現と芸術のあいだ Ⅲ」と「日常の解体と獲得」で展開された議論、とりわけウォーホルの映画《チェルシー・ガールズ》(一九六六)をめぐる考察が重要だろう(38)。堀によれば、ニューヨークのチェルシー・ホテルに滞在する女性たちを撮影した実験的ドキュメンタリーであるこの映画は、日常と物語の境界線を表現している。

登場人物たちは、日常の自分自身として生活し、会話し、しかしそこにカメラがあり、カメラに覗かれていることを知っている彼らは、同時に演技もしているのであり、さらに又、カメラとそれを覗くものへ直接アプローチすることで、日常生活でもなく、演技でもない何事かを行っている(39)。

《チェルシー・ガールズ》は日常の記録であり物語でもある。堀はこの作品を「日常性物語の解体」と評し、観客にとって映画に「見返されるという契機」であると論じた。彼の言葉で言いかえれば、この映画は日常とその物語の境界線を表現するために、観客は自分が見ているものをたえず問い直さなければならない。先に述べた「主体とものとの相互規定的な関係」がこうして観客と作品とのあいだに生まれる。「調書」シリーズはこの議論の延長上にあると考えられる(40)。

 「街の記憶」という副題をもつ《調書 Vol.2》は田村画廊で七三年七、八月に、二部に分けて開催された(41)[図8]。前半では毎日別の出演者がカセットテープレコーダーで環境音を録音しながら自宅から画廊に向かう。彼らはその途中で見えた文字を読み、レコーダーに吹きこむ。出演者が画廊に着くと、その行程が地図に記され、地図とカセットを再生するレコーダーが展示される。後半では床に先の地図とカセットが並べられ、その一組がレコーダーとともに机に置かれる。机に座る堀は再生したカセットから聞こえる言葉をカードに書きとり、それをカードボックスに収納していく。

 本作品の録音からは出演者の声と都市の環境音が聞こえる。出演者は目にした文字を機械的に読みあげているものの、その声のトーンや間隔は変化していく。それらはおそらく出演者の周囲の環境に応じている。例えば、出演者の声は人混みでは減って、ささやくようになり、静かな場所では増える。電車内でアナウンスや大きな騒音があると、出演者は黙ってそれを聞く。したがって、このように言えるだろう。この都市の記録は環境からの影響と出演者の意思の境界線上にある。

 七三年八月、堀は「京都ビエンナーレ」にグループ「五人組写真集編集委員会+5」の一員として参加した(42)。また九月に第二次美共闘REVOLUTION委員会が企画した「プリンティング・マシーン」展で、堀は石膏を両手に持てる限界の大きさに丸めた《十五個の石膏》を発表した。彼によれば、この作品は同展の名前どおり機械のように反復される単純な行為を示している。またこの展覧会では、第二次美共闘REVOLUTION委員会の運動としてメンバーが翌年一年間、作品の制作および発表を中止することが告知された。

 七三年十月にときわ画廊で開催された《調書 Vol.3》の副題は「走行一五〇〇㎞」である(43)[図9]。堀はあらかじめテープレコーダーを持ってバイクで東北方面に向かい、録音をしたまま一日走行して東京に戻った。そして、ときわ画廊の展示室に布を敷き、バイクを置いて、顔を白く塗った役者をまたがらせる。堀と観客は隣の事務室に座り、増幅された走行音の録音に耳を傾けた。本作品の録音からはエンジンと環境の音のさまざまな組みあわせが聞こえる。バイクの停車中や走り出しはエンジンのリズミカルな音に交通騒音が混ざる。バイクの速度が増すとエンジンの持続音だけが響き、さらに加速すると風の音がエンジンの音を覆いかくす。バイクの速度を左右するのは周囲の環境と堀の意思である。

 「調書」シリーズの記録は、機械的につくられるにもかかわらず、日常とも物語とも言いがたい、両者の境界線上にある。その観客は聞こえる音がどのように生まれたのかを問うことになる。堀はこれを相互規定的関係と呼んだのではないか。この関係は先に論じた《ACT展 No.3》の録音を聞くときも生じていたと考えられる。

 「調書」シリーズは《Vol.2》のバリエーションである《調書 Vol.4》(一九七三)で終わった。しかし、このシリーズには途中で中止され、一部のみが発表された作品があった。七六年の京都ビエンナーレに出品された《A DAY》である(44)。これは堀自身の二四時間の行為を文字によって秒単位で記録する作品となるはずだった。そのために彼は一四四〇枚の紙を用意し、一枚に六〇本の罫線を引いた。そして、おおまかにメモを取ったある一日の行為を想像で再現しながら、罫線一本に一秒間の行為──「手を上げる」、「手を下ろす」、「立ちあがる」など──を書いていった。しかし、堀はこの作業に「時系列の同一性のゆらぎ」、「自己同一性の崩壊の不安」を感じ、七時間分で止めてしまった。堀が参照した李禹煥の議論における、表象と対象の「飽和」を思わせるこの出来事は、堀の方法が抱える危うさを示していた。
 

4 パフォーマンスと絵画の共存と、パフォーマンスの休止

 本節は「調書」シリーズの後に一年間の休止を経て、七五年にパフォーマンスを再開し、七七年のパリ青年ビエンナーレをきっかけにパフォーマンスを休止するまでの堀の実践をたどる。彼は再開後のパフォーマンスにおいて映像や音声の記録と再生を何度もくり返すという方法を試していった。また、ひとつの展覧会でパフォーマンスと絵画を同時に発表することも始めた。

 堀は「プリンティング・マシーン」展での告知のとおり、七四年には作品を発表しなかった。しかし、同年に立川米軍ハウスに引っ越し、広いアトリエを使えるようになってから、二つの実験に取りかかった(45)。ひとつは《四色のクレヨン》の展開であり、後に《THREE PRIMARY COLORS-PRACTICE》へとつながる、シルクスクリーンで赤、青、黄色の色面を、順番を変えながら刷り重ねるという実験である。堀はこの試みを何度もくり返した。また、堀は知人をアトリエに招き、さまざまなパフォーマンスをヴィデオで撮影するという実験も行った。残された映像には、出演者が手にした本をできるだけ速く読もうとする様子がさまざまな角度から映っている。「セッション」と呼ばれたこの試みも何度か行われた。

 七五年一月に田村画廊で開催されたグループ展「フィルムメディア・イン・タムラ ‘75──ビデオによる」で、堀は《MEMORY-PRACTICE》を発表した[図10]。ヴィデオ、テープレコーダー、写真、タイプライターを使用する本作品は、あるイメージを別のイメージに変換する《ACT展 No.4》のような作業を何度も反復する(46)。複雑な構成をできるだけ短くまとめてみよう。会場には街の風景の映像を映すモニター、撮影の同行者が撮影中に見たものを語った声の録音を再生するオープンリールテープレコーダー、先の映像から喚起される文章が書かれた原稿用紙、その文章を細切れに記したカード、撮影者が歩いた道の写真がある。会場の床には白い布が敷かれている。展示中、数名の出演者が先のカードをランダムに手にとり、写真と組みあわせて「シナリオ」と呼ばれる新たな文章をつくる。堀はその文章をヴィデオで撮影する。顔を白く塗った男が布の上の椅子に座り、その前に風景を映すものとは別のモニターが二つある。ひとつには堀が撮影した映像が映り、男はそれを読む。男の口元が別のヴィデオで撮影され、もうひとつのモニターに映る。

 《MEMORY-PRACTICE》は日常のイメージの解体と再構成を執拗にくり返す──映像、音声、写真から文章、カード、シナリオ、音声に進み、口元の映像で終わる。本作品は堀のそれまでのパフォーマンスの複合体であり、その題名は彼のパフォーマンス全体の名前になった(47)。

 同年二月の真木画廊での個展「THREE PRIMARY COLORS-PRACTICE + DANCING AFFAIR」には、絵画とパフォーマンスが同時に発表された(48)[図11]。《THREE PRIMARY COLORS-PRACTICE》はシルクスクリーンを使用して三原色の色面を刷り重ねる作品である。堀は赤青黄、赤黄青、青赤黄というように順番を変え、重ねる回数も変えていった。こうしてつくられた微妙に異なる色あいとムラをもつ黒い色面が会場の壁に貼りめぐらされた。また詳細は不明だが、「赤」、「青」、「黄」と題されたヴィデオが会場のモニターに映された(49)。

 《MEMORY-PRACTICE (Dancing-Affair)》(以下《Dancing-Affair》)は堀浩哉と堀えりぜによる、ヴィデオカメラと二台のモニターを使用するパフォーマンスである(50)。同年に別の展覧会で上演されたときの記録によれば、まず二台並んだ会場のモニターのひとつに街の風景が映される(51)。顔を白く塗り、黒タイツを着て、机に座った堀えりぜは映像に映された人間の行動を「あるく」、「たちどまる」などの動詞でノートに記す。堀浩哉は彼女の姿をヴィデオで撮影する。次に、モニターにその映像が映される。堀えりぜは自分の映像を見ながら、書かれた動詞を読み、堀浩哉が再びその姿を撮影する。こうして映像が文字に、文字が音声に変換され、次に音声は彼女の仕草になり、仕草は彼女自身によって模倣される。会場にはモーツァルトの音楽が流された。

 二つの作品は堀がパリ青年ビエンナーレに参加するまでかたちを変えながら何度も発表された。《THREE PRIMARY COLORS-PRACTICE》は三冊の本にもなった。《Dancing-Affair》は街の映像ではなくテレビ番組の映像を使い、動詞、仕草、動詞、仕草という変換をくり返すヴァージョンや、仕草だけを何度も模倣するヴァージョンがある。そして、七五年には絵画「LINE-PRACTICE」シリーズも始まった(52)。このシリーズの作品は次のような一連の作業からなる。平面上に顔料を付けた糸を張り、弾いて線を引く。糸を平行に数ミリずらし、また弾く。これをくり返して画面全体を線で覆う。このシリーズも《THREE PRIMARY COLORS-PRACTICE》と組みあわされたりという展開が生まれた。

 《白いクレヨン》以降、または《鑑賞を拒否する》以降の絵画は、パフォーマンスを封印した後に絵画に専念した堀にとって「絵画への準備」だったとされる。この議論は堀自身をはじめ、多くの論者が論じてきたのでここでは省略する(53)。本論文が問いたいのは、同じことがパフォーマンスとパフォーマンス休止後の絵画の関係にも言えるのかということである。この問題は次節で検討しよう。

 七七年九月、堀はパリ青年ビエンナーレのオープニングで《Reading-Affair》を発表した[図12]。このときはパリ在住の日本人俳優、相沢が一人で二台のテープレコーダーを使用して上演した(54)。堀は同展で《Dancing-Affair》を上演する予定だったが、機材の問題のためにオープニングに間に合わないことが事前にわかった。オープニングの機会を逃したくなかった堀は現地で《Reading-Affair》のコンセプトを決め、機材を調達し、会場の通路部分で半ば強引に上演した。このパフォーマンスは二日間のオープニングの開場時間のあいだずっと続けられた。それ好評を得て、翌週にパリのギャルリー・ファリデ・カドで本作品を再演することになった。このときは相沢とフランス人俳優、サビアが二人で演じた。本論文の序論で記述したのはこのヴァージョンである。

 オープニングのパフォーマンスの録音では、相沢が一人でオープンリールレコーダーに向かってフランス語の文章を一文字ずつ読んでいる。会場のざわめきとハウリングは刻々と変化していく。それに合わせてかどうかはわからないが、彼は読みあげる速度をさまざまに変えている。一方、ファリデ・カドの録音では相沢とサビアが五秒に一度ほどのペースで文字を読み続ける。元はガラス工場だったこの画廊は音が大きく反響する。そのため、ハウリングが揺れながら長く持続し、二人の声を覆うこともある。相沢とサビアは互いに声を聞き、聞き返されながら、少しずつ声を変化させていく。堀は後に「喧騒の中でのビエンナーレとは逆に、静かな修道院でのミサのような時間が流れ」たと語った(55)。

 堀のパフォーマンスはこの上演を最後に休止された。八七年に一度、例外的に《Reading-Affair》が上演されたものの、本格的に再開されたのは九八年だった(56)。堀浩哉、堀えりぜ、畠中実の「ユニット00」によって上演された《Reading-Affair ‘98》では、パリ青年ビエンナーレのオープニングのように、堀浩哉がひとりでレコーダーに向きあった(57)。しかし、任意の文章を一文字ずつではなく、連合赤軍の「山岳ベース事件」、オウム真理教の「坂本堤弁護士一家殺害事件」(一九八九)、「神戸連続児童殺傷事件」(一九九七)のそれぞれの加害者による供述調書を交互に一文節ずつ読んだ。堀にとってこれらの事件は「二重権力」をあらわすものだった(58)。

 「調書」シリーズが不本意なかたちで終わった後、堀は学生運動以後からそれまでに培ったパフォーマンスの方法を最大限に活かすために試行錯誤を行った。特にパリ青年ビエンナーレで上演した《Dancing-Affair》と《Reading-Affair》はその成果だったと言えるだろう。映像、音声の記録と再生を何度もくり返すというこれらの方法は、先に述べた、テクノロジーの「自己運動化」という李禹煥の言葉を思わせる。堀は「調書」シリーズで直面した危機を、近代におけるテクノロジーの働きをより追求することで克服しようとしたと言えるかもしれない。それでは、彼はなぜパリでパフォーマンスを止め、絵画に専念しようと決めたのか。次節は堀の言葉にもとづいてこの問題を考えることから始め、パフォーマンスと絵画の関係を明らかにしたい。
 

5 パフォーマンスと絵画の関係

 堀は八八年にパフォーマンスの休止をめぐって次のように語った。

そして七十七年。この年私はパリ青年ビエンナーレの国際審査でパフォーマンス部門に選ばれ渡仏しました(このときはじめて私は、包括的な概念としてのパフォーマンスという言葉に出会った)。このとき私は《絵画の周縁》を遠心的に求めていけば、それはただ“周縁部の美術”になるだけであり、《絵画の周縁》はあくまでも絵画という形式の中心部でこそ実現されなければならない──と思い定めたのです(59)。

千葉成夫は堀の絵画をめぐる評論においてこの「周縁部の美術」という言葉に注目し、パフォーマンスから絵画への展開を「周縁から核心へ」と表現した(60)。千葉によれば、堀は「もともと画家たらんと欲してきたのだし、画家だった」。しかし、大学入学以後は日本近代絵画を問い直す必要に迫られ、パフォーマンスを通じてその周縁を探った。そして、七八年以降は本格的に絵画の核心に戻った。このような千葉の議論は、峯村のポストもの派論と同じように、堀のパフォーマンスを絵画のための足がかりと見なす。それでは、千葉のように理解するのではないとしたら、「周縁部の美術」という言葉はどう解釈できるだろうか。

 本節は堀の七〇年代のパフォーマンスと彼の絵画の関係を考察する。まず、彼がパリ青年ビエンナーレのころにパフォーマンスについてどう考えていたかを検討する。次に絵画からパフォーマンスへの影響を考える。最後にパフォーマンスと絵画の関係と比較できるであろう、美術と演劇の関係についての堀の思考をたどる。

 堀がよく語った、パフォーマンスを休止するきっかけとなった出来事は二つある。マルモッタン美術館でモネの作品を見たことと、ビエンナーレにパフォーマンス部門が新設されたことである。堀はパフォーマンスが「名付けられてしまうと急速に、その“ジャンルとしての表現”に興味を失」ったという(61)。後者は堀のパフォーマンスをめぐるこれまでの議論ではあまり重視されなかった。しかし、堀の当時の姿勢を考慮すると重大な出来事だったと考えられる。堀のパフォーマンスは名前や制度をめぐるものだった。「周縁部の美術」という言葉はこの「ジャンルとしての表現」としてのパフォーマンスを指すのではないか。先に引用した文章は堀がパフォーマンスを再開する十年前、絵画に専念していた時期に発表されたものであり、一ジャンルとしてのパフォーマンスに対して悲観的にとらえていても不自然ではない(62)。

 パフォーマンスの休止の直接的なきっかけではなくとも、その方向転換を迫る要因もあったと考えられる。ひとつは先に述べた《A DAY》に起きた問題である。七四年の実験を経て、ある程度は乗り越えられたのだろうが、堀はこれをいつまでも忘れがたい不快と語った。もうひとつは堀えりぜとの共同制作の始まりである(63)。それまで、堀浩哉はパフォーマンスを個人の名前で発表してきた。しかし、《Dancing-Affair》の共同制作が深まるにつれてこのことに違和感が生まれ、パリ青年ビエンナーレで決定的になったという。パフォーマンスを再開してからは「ユニット00」と「堀浩哉+堀えりぜ」という名前が使われている。

 以上から推測できるのは、堀はパフォーマンスを発展的に止め、その土台の上に絵画を花開かせたというより、複数の理由からパフォーマンスを休止せざるを得なかったのではないかということである。このことは彼の七〇年代のパフォーマンスと絵画の関係を考慮することでより明らかになるだろう。

 堀はよく七八年からの絵画がいかにパフォーマンスの方法を取りいれたかを語った。このことは彼の絵画に関する評論において重視されてきた。しかし、これまで見てきたとおり、堀は七八年以前もずっと絵画を制作しており、パフォーマンスが絵画から影響を受けることもあったと考えられる。例えば、木枠と布の組みあわせを変え続ける《ACT展 No.2》は《鑑賞を拒否する》のような、絵画の支持体をあらわにする作品になるはずだった。任意の文章の朗読に「REVOLUTION」という声を挿入する《ACT展 No.3》は、《REVOLUTION》の壁や「紙面開放計画」の作品の音声版である。映像の再生、撮影を何度もくり返す《Dancing-Affair》や音声の録音、再生を反復する《Reading-Affair》の方法は、シルクスクリーンを何度も塗り重ねる実験を思わせる。したがって、堀のパフォーマンスが一方的に絵画の足がかりになったと言うことはできない。パフォーマンスの方法が絵画に取りいれられたことは、前者が後者の準備であることを必ずしも意味しないはずである。

 パフォーマンスと絵画の関係をめぐるここまでの考察を補足するために、堀にとっての美術と演劇の関係も考慮したい。彼は絵画とパフォーマンスを美術に属すると見なすため、それらの関係は美術と演劇の関係に重なるものではない。しかし、後者の関係は堀が芸術の制度と向きあうときの重要な論点だったと考えられる。したがって、パフォーマンスの位置づけを考えるためにも参考になるだろう。

 堀は流山児祥が主催する劇団「演劇団」に七七年まで座付き作家として参加した。堀のパフォーマンスには明らかに演劇の要素──舞台を思わせる白布、白く塗った顔、「シナリオ」など──が見られる。堀はパフォーマンスを休止したときに「演劇団」との仕事も辞めた。それでは、こう考えられるだろうか。堀は七七年まで演劇の影響を受けてパフォーマンスを発表してきた。七八年からはそれらを足がかりにして、本格的に美術、絵画に専念することになった。実際は、彼はこのような演劇と美術の関係を否定していた。

 堀が七〇年代に語った彼にとっての美術と演劇の関係は独特であり、これは堀の運動論、芸術論と結びついているだろう(64)。彼は学生運動のころから美術という制度を引き受けることを選んだ。そのため、美術と演劇という二つの制度のあいだを自由に移動することも、両者を混ぜ合わせて新たな領域をつくることも望まなかった。彼は美術に身を置きながら、自らを裂くようなかたちで演劇に関わった。

私は、私の中で隣りあってしまった美術−演劇を、さらに衝突させ撹拌することで、個別ジャンルからとは別の角度で、私たちの表現しつづけること=運動のかたちを考えつづけていきたいと思っているだけだ(65)。

 このような堀の思考はある程度、パフォーマンスと絵画の関係にも通じているのではないか。堀はパフォーマンスを制度としての美術のなかで展開した。しかし、例えば、「THREE PRIMARY COLORS-PRACTICE+DANCING AFFAIR」という展覧会名にあらわれているように、パフォーマンスと絵画を一体化することは避けた。先に見たとおり、堀のなかで両者は影響をあたえあった。このことは両者を「衝突させ撹拌する」試みと考えられる。

 本節は堀の七〇年代のパフォーマンスと絵画の関係をめぐる三つの論点を考察した。いずれの議論もパフォーマンスから絵画へという発展を認めることの難しさを示していた。したがって、こう言うことができるだろう。あえて美術家と名のることを選んだ堀は、実際にはパフォーマンスと絵画、美術と演劇のあいだで引き裂かれていた。
 

結論──境界線上を流れる時間

 堀は八九年にこう主張した。「七〇年代の美術は、前衛の六〇年代とポストモダンの八〇年代にはさまれた不毛の時代だった、とよく言われていますが、それは嘘です」(66)。峯村のポストもの派論も八〇年代に七〇年代美術の意義を訴える評論だった(67)。しかし、同じ時代を評価しようとする峯村と堀の思考のあいだには、これまで見てきたとおり、埋めがたい違いがある。この結論は両者の議論をあらためて対比することで、堀の七〇年代のパフォーマンスの意義を考えたい。そのために、まず峯村のポストもの派論の背景を考察する。次に本論文をふり返りながら堀のパフォーマンスの成りたちと経緯をまとめる。

 峯村が評論「もの派はどこまで越えられたか」を掲載したのは、彼が東野芳明と共同企画した八七年の展覧会「もの派とポストもの派の展開」のカタログだった。この評論では、峯村が「ポストもの派」という言葉を初めて使ったのは七九年であり、この言葉は印象派とポスト印象派の関係を想起させるために選ばれたと述べられている(68)。彼がもの派と印象派を重ねあわせた理由は主に二つあった。ひとつはポスト印象派が印象派の影響を受けながら「絵画的・彫刻的造形」へと向かったことを、ポストもの派の理解のために参照したからだった。もうひとつは西洋美術の主流に対抗しようとする印象派の「国民主義」をもの派に認め、もの派からポストもの派への展開を「日本の近代美術史ではきわめて稀な内的・自律的な批判と継承」と見なすことで、もの派を起点とする日本現代美術史を描こうとしたからだった。

 二つ目の理由は東野が同展覧会カタログに寄稿した評論でも説明された(69)。ここで、彼は同展覧会に先立ちポンピドゥー・センターで開催された展覧会「前衛芸術の日本 一九一〇−一九七〇」(一九八六)に言及した(70)。東野によれば、この展覧会がもの派の登場で終わることに対する不満はよく語られていた。しかし、彼自身はカトリーヌ・ミレーによるこの展覧会の批評が、日本の戦後美術史を「「帰還不可能の地点」に次々につっ走って消えた、自爆につぐ自爆の連続」として表現したことを気にかけた。東野はこの批評を、西洋美術史の「歴史の弁証法的運動」、「作品が作品を生んでゆくというレアリティ」が日本の戦後美術史には乏しかったことを意味すると理解した。そこで、「もの派とポストもの派の展開」展ではポンピドゥーの展覧会の後を継ぐかたちで、もの派以降の展開を歴史の弁証法的運動として描こうとしたと語った。東野はこの評論の末尾で「ものからものがたりへ」というテーマを提起した。

 こうして峯村のポストもの派論の背景を見ていくと、この議論が堀のパフォーマンスとはまったく異なる意図をもっていたことがより明らかになる。峯村は西洋近代美術史のような「内的・自律的な批判と継承」を七〇年代の日本現代美術史に認めようとした。しかし、堀は近代美術制度の危機を意識し、その内部と外部のあいだにある境界線上に立とうとした。

 本論文をふり返りながら、堀の七〇年代のパフォーマンスの成りたちと経緯をまとめよう。その軸になった、外部を目指しながら、内部にいることを引き受けるという姿勢は、社会や美術の制度の危機と向きあった学生運動において培われた。学生運動以後、堀は運動論を芸術論に展開させ、美術における二重権力や日常という物語を告発しながら、知覚における相互規定的関係や制度の境界線上に立つことの重要さを訴えた。堀のパフォーマンスはこうした芸術論をさまざまな方法で具体化していった。「ACT展」シリーズは目指すものを探し続ける、任意の文章に彼の言葉を挿入する、テクノロジーを用いて変換することで任意の文章やイメージを解体するという方法を試みた。「調書」シリーズは日常と物語の境界線上に立つことで観客とのあいだに相互規定的な関係をつくりだそうとした。《MEMORY-PRACTICE》以後の作品はあたかもテクノロジーが「自己運動化」したかのような、映像や音声の記録と再生をくり返すという方法を用いた。

 堀のパフォーマンスとそれ以後の絵画には「内的・自律的な批判と継承」や「歴史の弁証法的運動」は見られない。彼はパフォーマンスと絵画、美術と演劇のあいだの距離を重視していたと考えられる。一方の方法が他方に使われることはあっても、一方から他方へという発展は認められない。堀のパフォーマンスの休止は第三節で論じた、境界線上に流れる時間にもとづいて理解できるだろう。来るべきものを求め続けるこの時間は、堀のパフォーマンスのなかに初めから流れていた。この時間は求めるものにたどり着かないため、必然的に休止が起きる。

 それでは、堀のパフォーマンスは何を達成したと言えるのか。筆者の考えでは、同時代の制度や物語の内部からそれらを解体し、観客と作品のあいだに相互規定的関係をつくりだすことである。彼のパフォーマンスの意義は美術の自律的発展のなかではなく、彼が直面した近代制度の危機や、先行する他者の作品と芸術論、同時代のテクノロジーといった文脈のなかで理解する必要がある。そして、堀の当時の思考は孤立したものではなく、少なくとも彼の世代には影響力があったと考えられる。そこで、堀のパフォーマンスをめぐる議論にもとづいて、峯村とは異なるかたちで七〇年代日本美術史を記述できるかもしれない。この歴史においてはパフォーマンスやさまざまなテクノロジーの使用が絵画に劣らない重要な位置を占める。

 しかし、具体的な議論に取りかかるためには、美共闘周辺の同世代作家だけでなく、より年長の作家や東京以外の作家も視野に入れる必要がある。さらに、堀の絵画や再開以後のパフォーマンスも当然考慮しなければならない。これらは今後の課題としたい。




(1)峯村敏明「もの派はどこまで越えられたか」『もの派とポストもの派の展開──一九六九年以降の日本の美術』展覧会カタログ、多摩美術大学、西武美術館、一九八七年、十八−二〇頁。

(2)天野一夫「総論──反「ビデオ・アート」そして/あるいは汎「ビデオ・アート」」『ビデオ・新たな世界──そのメディアの可能性』展覧会カタログ、財団法人品川文化振興事業団O美術館、一九九二年、八頁。

(3)堀の経歴を概観できる作品集は以下の通り。『堀浩哉展──風の眼』展覧会カタログ、高岡市美術館、一九九六年。『堀浩哉──風・空気・記憶』展覧会カタログ、町立久万美術館、二〇〇〇年。『堀浩哉展──起源』展覧会カタログ、多摩美術大学、二〇一四年。堀が発表した文章の多くは、堀浩哉『滅びと再生の庭──美術家・堀浩哉の全思考』(現代企画室、二〇一四年)(以下『滅びと再生の庭』)に再録された。そこで、本論文は堀の文章を参照するさい、同書の再録箇所の頁数を括弧内に記す。

(4)千葉成夫「空間の実現を求めて──堀浩哉論」in Hori Kosai: The Garden of the Fall and Rebirth, Exhibition catalogue, Seoul: 圖書出版六空舎, 2019, pp.4-7.

(5)堀の作品の詳細に関する記述は彼の作品集、文章、彼が所有する記録資料にもとづいている。さらに堀自身にもインタビューを行い、確認をした。本作品については、例えば、堀浩哉「愛の石だたみ」『演劇戦線』特別号、一九七七年十月、三−六頁(二八八−二九〇頁)。

(6)「ロングインタビュー 堀浩哉」『堀浩哉展──起源』四九−九四頁。

(7)堀浩哉「堀浩哉イベント「メモリープラクティス」」『第三回富山国際現代美術展「富山発 もうひとつの発言」の記録』富山県立近代美術館、一九八八年、二〇、二二頁(三四六−三四七、三四八頁)。

(8)針生一郎『戦後美術盛衰史』東京選書、一九七九年、一八四−一八五頁。

(9)堀浩哉、彦坂尚嘉「美術に死す」『美術史評』第九号、一九七八年、六二−六三頁。「ロングインタビュー 堀浩哉」五六頁。

(10)堀浩哉「六九年美共闘から七〇年代美共闘へ」『滅びと再生の庭』一一七頁。

(11)堀浩哉「美術家共闘会議の発足に向けて」『滅びと再生の庭』一〇七−一〇八頁。

(12)例えば、堀浩哉「富山県立近代美術館問題を通して考えたこと」『あいだ』第六八号、二〇〇一年八月、三〇−三一頁(四一九−四二〇頁)。

(13)「日常の類的生活関係の表現としてのあるいは見られる関係としての名称の総体を引きうけ、それを突き抜けうる闘いを組まない限り、闘争の無媒介性は乗り越えられないだろう」(堀「六九年美共闘から七〇年代美共闘へ」一一九−一二〇頁)。詳細は省くが、堀は後に唐十郎の身体論を参照して、名づけられていないものについて語ってもいる。堀浩哉「美術と表現のあいだ Ⅱ」『美術批評』第二号、一九七一年六月、五−六頁(一五二頁)。

(14)堀「表現と芸術のあいだ Ⅱ」十頁(一五六頁)。

(15)堀浩哉「表現と芸術のあいだ Ⅰ」『美術史評』第一号、一九七一年二月、四頁(一三四頁)。

(16)同上、十二−十四頁(一四一−一四二頁)。ハイジャック犯による宣伝は『読売新聞』一九七一年一月二〇日朝刊、三頁。

(17)堀浩哉「表現と芸術のあいだ Ⅲ」『美術史評』第三号、一九七一年十月、六−七頁(一六五−一六七頁)。

(18)同上、十−十一頁(一六九−一七〇頁)。

(19)堀浩哉「日常の解体と獲得──われわれの“今”へのメモランダム」『美術手帖』第三五二号、一九七二年二月、四〇頁(一九〇頁)。

(20)堀浩哉「とぎすまされた境界線」『jazz』第十二号、一九七二年五月、五〇−五三頁(二〇四−二〇八頁)。

(21)光田由里「「絵画」を絵に描く──堀浩哉の作品」『堀浩哉展──起源』四三頁。

(22)堀「堀浩哉イベント「メモリープラクティス」」二一頁(三四七頁)。

(23)堀浩哉「無題」『美術手帖』第三五九号、一九七二年十月、八〇−八一頁(二一五−二一七頁)。官能小説自体も堀がかつてペンネームで発表したものだった。

(24)柏原えつとむ「現場を演出することの現場──堀浩哉の作品について」『記録帯』第四号、一九七二年、二九頁。

(25)堀浩哉「虚構としての《フレーム》あるいは《タブー》──台本作成者のメモ」『演劇戦線』第三号、一九七三年四月、五九頁(二六一頁)。峯村敏明「展評 東京」『美術手帖』第三六七号、一九七三年五月、二六七−二七〇頁。出演者は池田昇一、田窪恭治、彦坂尚嘉、堀浩哉、山中信夫。

(26)峯村敏明「「繰り返し」と「システム」──“もの派”以後のモラル」『美術手帖』第三七五号、一九七三年十二月、一七四−一七五頁。

(27)峯村敏明「生きられるシステム」『美術手帖』第三八〇号、一九七四年四月、六八−七一頁。

(28)峯村敏明「芸術の自覚──媒体の構築に向けて」『美術手帖』第四三六号、一九七八年七月増刊、二四七頁。

(29)峯村「もの派はどこまで越えられたか」一九頁。

(30)峯村敏明「より大きなシステムの試練を」『美術手帖』第四三一号、一九七八年三月、一九九頁。

(31)堀浩哉「澱を吐く」『美術手帖』第四三八号、一九七八年九月、一五五頁(二二五頁)。

(32)堀浩哉「「制度」の言語と「運動」の言語」『映画批評』第二八号、一九七三年一月、九五−九八頁(二五三−二五六頁)。

(33)李禹煥「観念崇拝と表現の危機──オブジェ思想の正体と行方」『出会いを求めて──新しい芸術のはじまりに』田畑書店、一九七一年、二八−三〇頁。

(34)中原佑介『見ることの神話』フィルムアート社、一九七二年、一〇四−−一一〇頁。

(35)堀「表現と芸術のあいだ Ⅰ」十八頁(一四七頁)。堀「虚構としての《フレーム》あるいは《タブー》」五九頁(二六一頁)。

(36)同上、五九−六〇頁(二六一頁)。

(37)「展覧会案内(東京)」『美術手帖』第三七一号、一九七三年九月号、三四五頁。

(38)堀「表現と芸術のあいだ Ⅲ」十二−十三頁(一七一−一七二頁)。堀「日常の解体と獲得」四〇−四一頁(一九一−一九二頁)。

(39)堀「表現と芸術のあいだ Ⅲ」十二頁(一七一頁)。

(40)堀は後に「調書」というシリーズ名は警察の取り調べを受けたときの体験とル・クレジオの著作を元につけたと説明した(「ロングインタビュー 堀浩哉」七五−七六頁)。彼は学生運動に参加していた六九年十月に逮捕されたことがある(同上、六三頁)。そして、実際の調書は「本人から一番遠い虚の痕跡」であり、ル・クレジオの調書とは異なるとも語った。

(41)「ロングインタビュー 堀浩哉」七六頁。出演者は堀浩哉、渡辺哲也、矢野直一、雅子+尚嘉、稲憲一郎、髙見澤文雄。

(42)「五人組写真集編集委員会」についてはReiko Tomii, “Revolution in Bikyōtō’s Photography: Naoyoshi Hikosaka and the Group of Five” in For a New World to Come: Experiments in Japanese Art and Photography, 1968–1979 (Exhibition Catalog), Houston: The Museum of Fine Arts, Houston, 2015, pp.148-153.

(43)「ロングインタビュー 堀浩哉」七六頁。

(44)堀浩哉「Yさんへの手紙」『LR』第一号、一九九七年四月、二二頁(四六六−四六七頁)。

(45)堀、彦坂『美術に死す』七八−七九頁。谷新「一九七四年/美術に見る転換期の諸相──崩れゆくものと生まれいづるものの境界に立って」『一九七四──戦後日本美術の転換点』展覧会カタログ、群馬県立近代美術館、二〇一四年、十二−十三頁。

(46)「ロングインタビュー 堀浩哉」七七頁。早見堯「展評 東京」『美術手帖』第三九三号、一九七五年四月、二三二−二三四頁。

(47)堀「堀浩哉イベント「メモリープラクティス」」二〇頁(三四六頁)。

(48)「ロングインタビュー 堀浩哉」七七−七八頁。

(49)早見堯「展評 東京」『美術手帖』第三九四号、一九七五年五月、二二九頁。堀が所有する記録によれば、カラーヴィデオで撮影された街の映像と考えられる。「光の三原色」(赤、緑、青色)とは異なる発想にもとづいていたようだ。

(50)記録写真によれば、最初期は堀えりぜではない女性が出演したこともあったようだ。しかし、すぐに彼女だけが出演するようになり、堀浩哉と堀えりぜの共同制作になった。

(51)東野芳明「異聞物体譚──光物」『小原流挿花』第三〇三号、一九七六年二月、七六頁。

(52)堀「堀浩哉イベント「メモリープラクティス」」二一頁(三四七頁)。

(53)例えば、舟塚雅恵「絵画へ──三つのプラクティスから」『堀浩哉展──風の眼』七三−七四頁。光田「「絵画」を絵に描く──堀浩哉の作品」四二−四五頁。

(54)堀「愛の石だたみ」三−六頁(二八八−二九〇頁)。堀浩哉「Yさんへの手紙6」『LR』第八号、一九九八年六月、二九−三一頁(四九二−四九三頁)。相沢とサビアのフルネームは不明。

(55)堀「Yさんへの手紙6」三一頁(四九三頁)。

(56)なぜこの時期にパフォーマンスを再開したのか、堀はいくつかの理由を語った。主な理由は九六年に絵画の回顧展を開催したことである(例えば、堀「Yさんへの手紙6」三四−三五頁(四九五−四九六))。

(57)堀浩哉「ユニット00」『東北学』第七巻、二〇〇二年十月、三七六頁(六三七頁)。

(58)堀浩哉「Yさんへの手紙9」『LR』第十五号、一九九九年九月、四四頁(五一九頁)。

(59)堀「堀浩哉イベント「メモリープラクティス」」二二頁(三四八頁)。

(60)千葉成夫『未生の日本美術史』晶文社、二〇〇六年、二一四−二三五頁。

(61)堀「Yさんへの手紙」二〇頁(四六二)頁。

(62)堀の作品は八五年の『美術手帖』のパフォーマンス特集に取りあげられた。しかし、ここで七〇年代作品は六〇年代の動向の多様化としか見なされなかった。國吉和子「テキストの身体/身体のテキスト」『美術手帖』第五五一号、一九八五年十月、九〇頁。

(63)堀「ユニット00」三七六−三七七頁(六三八頁)。

(64)堀「虚構としての《フレーム》あるいは《タブー》」五七−六一頁(二五九−二六二頁)。

(65)堀「「制度」の言語と「運動」の言語」九五頁(二五二頁)。

(66)堀浩哉「センス・オブ・ニュー・アート 2」『月刊THIS IS』一九八九年五月号、二〇四頁(三五二頁)。

(67)峯村「もの派はどこまで越えられたか」二四頁。

(68)Toshiaki Minemura, “«Mono-ha e post Mono-ha», osservazioni sull’arte in Guaooibe” in Domus, no.596, 1979, p.45. 峯村「もの派はどこまで越えられたか」十四−十五頁。

(69)東野芳明「もの派とポストもの派の展開──一関係者の随想」『もの派とポストもの派の展開』展覧会カタログ、多摩美術大学、西武美術館、一九八七年、十−十二頁。

(70)なお、東野は同展のタイトルを「さまざまな前衛の日本──一九一〇〜一九七〇」と表記した(同上、十頁)。


 本論文は表象文化論学会第十四回大会研究発表パネル「音の境界」(二〇一九年七月七日、於京都大学)における口頭発表「堀浩哉によるメディアを用いた一九七〇年代の初期作品──演劇との関わりから」に加筆修正したものである。
 執筆に当たり、鈴木完侍氏、堀浩哉氏、堀えりぜ氏、畠中実氏、矢田卓氏(五〇音順)をはじめ、多くの方に貴重な資料をご提供いただき、ご助言をいただいた。記して謝辞としたい。
 本論文はJSPS科研費 JP15K02101の助成を受けたものである。


図1 堀浩哉《MEMORY-PRACTICE (Reading-Affair)》ギャルリー・ファリデ・カド、一九七七年(撮影者不明)

図2 堀浩哉《鑑賞を拒否する》一九六九年、東京都美術館(撮影者不明)

図3 堀浩哉《REVOLUTION》一九七一年、渋谷スペースラボラトリーHAIR(撮影 矢田卓)

図4 堀浩哉《ACT展 No.2》一九七二年、にれの木画廊(撮影 矢田卓)

図5 堀浩哉《ACT展 No.3》一九七二年、アトリエ・シノン(撮影 矢田卓)

図6 堀浩哉《ACT展 No.4》一九七三年、田村画廊(撮影 矢田卓)

図7 堀浩哉《調書 Vol.1》一九七三年、ピナール画廊(撮影 鈴木完侍)

図8 堀浩哉《調書 Vol.2》一九七三年、田村画廊(撮影 矢田卓)

図9 堀浩哉《調書 Vol.3》一九七三年、ときわ画廊(撮影 矢田卓)

図10 堀浩哉《MEMORY-PRACTICE》一九七五年、田村画廊(撮影 矢田卓)

図11 堀浩哉《THREE PRIMARY COLORS-PRACTICE》《MEMORY-PRACTICE (Dancing-Affair)》一九七五年、真木画廊(撮影 矢田卓)

図12 堀浩哉《MEMORY-PRACTICE (Reading-Affair)一九七七年、パリ青年ビエンナーレ(撮影者不明)