非均質な世界──堀浩哉「リーディング・アフェア」
金子智太郎
1947年生まれの日本の美術家、堀浩哉はこれまで1977年「パリ・ビエンナーレ」、1984年「ヴェニス・ビエンナーレ」など数多くの国際展に参加し、現在も絵画作品とパフォーマンス作品の発表を続けている。60年代末、多摩美術大学在学中に美共闘議長を務めたときの彼の言葉「今、美術家と呼ばれているなら、そこが戦場だ」は、近代美術システムと、その外部に出ようとした日本の前衛運動をともに批判するものだった*1。このころより、彼はバリケードの内でも外でもなく、バリケードそのものである境界線の上に立つことを信条としてきた。
本作品集は、堀が美共闘解散後、彦坂尚嘉、山中信夫、刀根康尚らと芸術運動として美共闘REVOLUTION委員会を結成し、活動していた70年代に発表された作品の記録である。この時期、彼はテープレコーダー、タイプライター、ヴィデオなどのメディアを用いたパフォーマンスと、色、線などの造形の基本的な要素をテーマとする造形作品を並行して制作していた。78年以降、堀は絵画に専念し、特異な層状の絵画空間を生みだしていく。90年代末にパフォーマンスを再開するまで、70年代のパフォーマンスは顧みられる機会が少なかった。ここに収録された音源はどれも堀の元に残されていたものである。こうした記録はようやく近年になって詳細が明らかになってきた。
70年代の日本では、堀と同世代──団塊(ベビーブーム)世代──の多くの美術家がテープレコーダーを用いてたくさんの作品を制作した。これらの作品には、先行する美術動向の批判的継承だけでなく、70年代日本のメディア環境との関連も見てとれる。そのなかでも堀の一連の作品は、その数やヴァリエーションのみから見ても、きわめて重要な位置にある。
MEMORY-PRACTICE (Reading-Affair) 1977年9月23日 ギャルリー・ファリデ・カド(パリ)
白い服を着て顔を白く塗った男女が、床に敷かれた白い布の上にある白い机に向かっている。二人のあいだに一本のマイクがあり、そのケーブルは机の前の床に置かれた一台のオープンリールレコーダーにつながっている。このレコーダーのテープは少し離れて隣に置かれたもう一台のオープンリールレコーダーにつながる。このいわゆる「テープディレイ」システムは、男女が発した言葉を少し後になって再生する。
机の上には当日の新聞があり、男女はこれを一文字ずつ交互に音読する。発された言葉は2台のテープレコーダーによって少し後に再生される。再生された言葉はまたマイクによって拾われて、少し後に再生される。これがくり返されて次第にいわば声が堆積していく。時間が経つにつれて音響装置のハウリングノイズも大きくなっていく。
堀は1977年の「パリ青年ビエンナーレ」パフォーマンス部門に選ばれ、堀えりぜとともに《MEMORY-PRACTICE (Dancing-Affair)》を上演した。さらにビエンナーレでのパフォーマンスとは別に、ギャルリー・ファリデ・カドで本作品を上演した。演じたのはパリでパントマイムを学んでいた日本人男性、相沢と、チュニジア出身の俳優志望の女性、サビア。はじめにすぐハウリングが生じてしまい、マイクとレコーダーの位置を調整しながら上演を進めた。ハウリングが再び、声が聞こえないほど大きくなったときは、レコーダーの位置や音量を変えた。午後七時にはじまった上演は、記録用テープが終わるまで、2時間ほど続けられた。観客は会場の壁ぎわに思い思いに腰掛けていた。堀は後にこのとき「静かな修道院でのミサのような時間が流れ」たと語った*2。
1977年のパリ・ビエンナーレは「パフォーマンス」がひとつのジャンルとして認知されるきっかけとなった*3。しかし、堀は70年代を通じて展開してきたパフォーマンスを、これを最後にいったん封印し、以降は絵画に専念した。10年後の1987年に本作品は富山国際現代美術展で一度だけ再演された。さらに10年ほど後の1998年、堀は堀えりぜ、畠中実とパフォーマンスグループ「ユニット00」を結成し、本格的にパフォーマンスを再開した。
ACT展No.3 1972年12月1日–3日 アトリエ・シノン(東京)
床に敷かれた白い布は堀の前作《ACT展 No.2》(1972)で用いられたものだ。彼はこの作品で会場を囲むように設置された木製の梁に布をかけ、6日間にわたりその位置を変え続けた──来るべき位置はついに見つからないだろうという予感をいだきながら、来るべき位置を探した。最終目的を欠いた行為(ACT)が結果的に浮き彫りになるこの方法には、美術制度の境界に立ち、それをずらしていこうとする姿勢が見える。またこの方法は当時注目を集めていた、もの派と日本の観念美術に対する批判でもあった。
《ACT展 No.2》で梁を移動し続けた白い布は、《ACT展 No.3》では行き所を失って仕方なくといった風情で床に敷かれた。この布は以降の堀のパフォーマンスにくり返し登場する。さらに、その色が浸透したかのように、白い服を着た出演者の顔、机、周囲のものも白く塗られた。「REVOLUTION」という言葉で文節を区切るという方法は、すでに彼のインスタレーション作品《REVOLUTION》(1971)において、壁に書かれた文字のかたちで試みられていた。
調書 Vol.3 1973年10月14日 ときわ画廊(東京)
副題は「走行1500km」。堀は東京からバイクで北に向かい、走行音を録音しながら東北地方を丸一日走りまわって東京に戻った。そして、会場に白い布を敷いてその上にバイクを展示し、顔を白く塗った俳優を乗せて運転のパントマイムをさせた。さらに、隣室にテープレコーダーを置き、走行音を再生した。観客はこの隣室に集まり、走行音に耳をかたむけた。
「調書」というシリーズ名はル・クレジオの同名の小説からとられた。しかし、この小説だけでなく、警察に逮捕されたときに作成される「本人から一番遠い虚の痕跡」という意味もこめられていた*4。美共闘REVOLUTION委員会が中心となり企画したグループ展「〈実務〉と〈実施〉・12人展」に出品された《調書 Vol.1》(1973)では、会場で本の一節を朗読し、その記録をエンドレステープと和文タイプライターで残して会場に展示した。
調書Vo1.4 1973年11月3日–14日 横浜市民ギャラリー(神奈川)
本作品は先行する《調書 Vol.2》(1973)のヴァリエーションと考えられる。「街の記憶」という副題がつけられた《調書 Vol.2》は2部からなる。第1部では6人(6組)の参加者(堀浩哉、渡辺哲也、矢野直一、雅子+尚嘉、稲憲一郎、髙見澤文雄)が、それぞれの自宅から会場に向かう途中、目にした文字を音読してカセットテープレコーダーで録音した。そして会場でその経路を示す地図を展示し、録音を再生した。第2部では堀が会場ですべての録音を聞き、カードに書きとってカードホルダーに入れた。
グループ展「今日の作家 ‘73」に出品された《調書 Vol.4》でも、堀は自宅から会場に向かう途中で目にしたものを音読し、録音した。そして展示台にその録音を小さな音で再生するカセットテープレコーダーを残して会場を去った。
MEMORY-PRACTICE (Reading-Affair) 1999年5月1日 クイーンズ美術館(ニューヨーク)
堀は98年に美共闘メンバー(石内都、彦坂尚嘉、堀浩哉、宮本隆司)が再結集した「AIR 空気展 Art in the Ruins」においてパフォーマンスを再開した。このとき上演した《Reading-Affair ‘98》から2011年までのパフォーマンスは「ユニット00」としての作品である。この作品でも1977年と同じようなテープディレイシステムを使い、同じ白い布を敷いたものの、俳優ではなく堀自身が顔を白く塗り演じた。またテキストはかつてのような新聞や本ではなく、1972年のあさま山荘事件、オウム真理教による1989年の坂本堤弁護士一家殺害事件、1997年の神戸連続児童殺傷事件のそれぞれの加害者による供述調書を使用して、出演者はそれを交互に一文節ずつ音読した。
クイーンズ美術館で開催された「グローバル・コンセプチャリズム」展でのオープニング・イベント「アフタヌーン・オブ・ジャパニーズ・パフォーマンス」に、堀は松澤宥、彦坂尚嘉とともに出演した。このときは、若手美術家のキム・コナートンとともに、1998年と同じテキストを日本語と英語で交互に読んだ*5。
2011年から現在も続くユニット「堀浩哉+堀えりぜ」は、2018年に本作品の新たなヴァージョン《わたしは、だれ?──Reading-Affair 2018》を上演した。このときは2011年の東日本大震災にともなう津波による犠牲者の下の名前が一人ずつ読み上げられた。また同時に、被害の大きかった宮城県閖上の海を震災後に撮影した映像が波音をともない出演者の背後に映しだされた。
1970年代の堀のパフォーマンスはどれも、意味、風景、記憶といった現実の一側面を要素に分解し、反復を軸に再構成するという方法をある程度共有している。しかし、実際には分解は限界があり、再構成は完全にシステマチックではなく、現実の一側面は要素にもシステムにも還元されきらない。この意味で、堀の方法は近代的な還元主義や合理主義とは距離をとっている。そしてこれらの作品において浮き上がるのはやはり、要素とシステムの境界にある行為のありかたである。
具体的には、断片化されきらない声の揺らぎ、不安定なハウリング。バイクの走行音のムラや、つながりのない名詞の集まりの向こうに、かすかに見える風景とそこにいる人物。さらに、周囲の環境音がたえず入りこみ、物語にならない物語、風景にならない風景を描く。堀はパフォーマンスを再開したとき、ノイズにまみれた「非均質な世界」の重要さを語った*6。美術制度の外部に出るのではなく、その境界に留まるという堀の選択の背後には、この非均質な世界に対する肯定がある。