リーフレット 9-2


方法としての音楽と建築──雅子+尚嘉の「テープ・デュエット」

金子智太郎

「日本美術サウンドアーカイヴ──雅子+尚嘉《SEA FOR FLOOR》1972年 彦坂尚嘉による再演と展開」リーフレット、2019年、2-4頁。



柴田雅子と彦坂尚嘉はオープンリールテープをリールから外し、東大前幼児園内に開設された邦千谷舞踏研究所の木張りの床に這わせた。テープは部屋の外に出され、壁をつたって屋根の上に伸ばされた。さらに屋根を横切り、建物を一周して部屋に戻ってループになった•1。テープには海の音が録音されており、柴田と彦坂は2台のテープレコーダーでこれを共有し、同時に再生した。レコーダーは部屋の床に置かれることもあれば、屋根の上に置かれることもあった。2人が屋根に上がって演奏をするのを見た谷新は、2台のレコーダーが「音の呼応ともいうべき関係」をつくりあげたと語った•2。雅子+尚嘉によるこのパフォーマンスは「テープ・デュエット」と呼ばれ、《SEA FOR FLOOR》、《SEA FOR WALL》、《SEA FOR ROOF》と題されている•3。

この作品は彦坂と八田淳が1972年9月に開催したイヴェント「駒場アンソロジー」で上演された•4。出演者は彼らと、邦千谷と彼女の生徒、そして風倉匠。イヴェントのきっかけのひとつは、同年6月に刀根康尚がルナミ画廊で開催したイヴェント「大音楽会《ホワイト・アンソロジー》」で、彦坂が邦、風倉と共演したことだった。「駒場アンソロジー」は音楽家の刀根、舞踊家の邦、美術家の風倉という戦前生まれの三人の芸術家と、彦坂と柴田、そして京都から東京に移住した八田という戦後生まれの三人の美術家の関わりから生まれた異種交流の場だった。本論考はまず「駒場アンソロジー」の開催までの交流の経緯をたどる。次に雅子+尚嘉の「テープ・デュエット」について彦坂の視点から考察する。柴田はこの作品のアイデアが彦坂のものだったと認めている•5。彼女の作品については別の機会に詳しく論じたい。

舞踊研究所でのインターメディア

6月10日の夜中から翌朝まで開催された「ホワイト・アンソロジー」を、市川雅は一時の熱気を失った後のパプニング・イヴェントと評した•6。刀根は会場にラジオを流し、それが1秒間のノイズに遮られると、天井に張られた大きなパラフィン紙が観客の上に落ちる作品《A Second Music──Broad Casting Version》を発表した•7。風倉は《KABARA》と題されたバルーンを使ったパフォーマンスを、邦は鈴木裕子、辻村和子、内田旬子らと《6月の遊戯》を上演した。彦坂の《MILK-CRASH Carpet Music》はこれらの作品のあいだに行われた。彼は刀根の部屋にあったカーペットを会場に敷き、これを数人で観客を押しのけながら一晩のうちに何度も裏返して敷き直した。イヴェントの最後に、床に悪臭のするラテックスの液を撒いた。

刀根、邦、風倉の交流は60年前後までさかのぼる。11年生まれの邦は舞踊とともに40年代から労働運動にも取りくんできた•8。57年に開設した舞踊研究所は彼女の社会活動の延長であり、大野一雄、土方巽ら舞踏家をはじめ、さまざまな人物が訪れた。ビアノの伴奏をきっかけに知り合った水野修孝を通じて、まだ学生だったグループ音楽のメンバー(小杉武、塩見允枝子、戸島美喜夫、刀根康尚、水野修孝)もそこに加わった•9。このころより邦はおそらく主に刀根を通じて実験音楽家ジョン・ケージの思想に傾倒していった。

小杉は、風倉と初めて出会ったのは59年の「読売アンデパンダン展」だったと語る•10。刀根が《テープレコーダー》(1962)を出品してから、グループ音楽のメンバーは同展に何度も参加した。風倉は60年の同展をきっかけに結成されたネオ・ダダイズム・オルガナイザーズに加入。焼きごてを胸に当てるといった過激なパフォーマンスを行い、またこのころからバルーンを使った•11。グループ音楽と風倉は交流を深め、風倉がグループ音楽のメンバーを自称したこともあった•12。刀根、邦、風倉は早くも63年に草月ホールでの「SWEET 16 パフォーミング・フェスティバル」に揃って出演した。

刀根は66年に赤瀬川原平の千円札裁判の支援活動をした後、69年には教員をしていた青山デザイン専門学校の学生運動に参加する•13。このとき彦坂と出会い、彼らは「現象学研究会」を始めた。この時期、彦坂は多摩美術大学のバリケード闘争に関わり、7月には「美術家共闘会議(美共闘)」に設立メンバーとして加入•14。彼は当時、刀根から前衛芸術や現代音楽をめぐる知識を学んだという。刀根は70年に著書『現代芸術の位相──芸術は思想たりうるか』(田畑書店)を出版。彦坂は同年、論考「李禹煥批判──《表現》の内的危機としてのファシズム」を発表した。71年から両者は60年代前衛芸術の総括をきっかけに、現代美術の50年間をふり返る年表の作成に取りかかった•15。

「駒場アンソロジー」の始まりとその後

69年に京都で作家活動を始めた八田は、翌年4月に東京に移住し、東京と京都を往復しながら作品を発表した。例えば、70年12月に田村画廊で石、紙、ロープ、電気コード、鏡、布などを使用した個展を開催•16。関西の若手作家が集まった71年のグループ展「すっかりダメな僕たち」には中心人物のひとりとして関わった•17。彦坂と出会ったのは両者の就職先の工芸会社だった。それまでに彦坂も自宅での個展の後、柏原えつとむの紹介で、72年2月に京都のギャラリー16と京都書院で展示をしていた•18。「ホワイト・アンソロジー」の後、8月に八田とともに「すっかりダメな僕たち」の続編「活躍する僕たち」展に出品•19。八田は彦坂が組織した美術運動組織「美共闘REVOLUTION委員会」の機関誌『記録帯』に作品を掲載した•20。

柴田雅子は71年7月に村松画廊で初めての個展を開き、青のグラデーションを基調とした絵画、床に砂を長方形に敷きつめた作品、綿でふちどったキャンバスなどを展示した•21。同年11月に長さ3m、断面30cm四方のコンクリートブロックを10本、砂浜から海中に向けてずらしながら並べた《鵠沼海岸に於ける作品呈示》を発表•22。650kgのブロックは15日の展示期間に少しずつ移動して砂に埋まった。この作品も『記録帯』創刊号に取りあげられた。

刀根、邦、風倉、彦坂が「ホワイト・アンソロジー」で顔を合わせた後、刀根は渡米し、彦坂と八田が「駒場アンソロジー」を始めた•23。日中は幼稚園として使われる部屋の椅子がすべて壁際に寄せられ、中央に広い空間がつくられた。記録写真には何回分のものかはわからないが、さまざまなパフォーマンスが見られる。邦は研究所生徒の内田、邑松央恵らとともに、会場にある物──花瓶、靴、ビニールシート、オープンリールテープなど──を使って即興で踊った。黒い袋に入り、袋ごとロープで体を縛られて床に横たわって、ふくらませたバルーンとチューブのようなものでつながれたのは風倉だろうか。《線による共振》と題されたパフォーマンスでは、彼は糸をアップライトのピアノ線に結び、さらに会場に張りめぐらせ、はじいて音を聞いた•24。八田は壁にはめられた大きな鏡を粘着テープで覆い、それをあちこち少しずつ割くことで鏡に映る像を次第に復活させた•25。また、天井からいくつもの布を吊り、空間を分割した。出演者の他には鈴木、赤土類、写真家の楠野裕司、美共闘の堀浩哉、山中信夫らの顔が確認できる。

以来「駒場アンソロジー」は毎週開催されるようになった•26。初回のメンバーが揃ったのは始めのころだけだった。彦坂は「2回くらい」だけ、八田は11月まで参加した•27。以後は邦、風倉、呉埜孔(楠野隆夫)、研究所生徒らを中心に80年代始めまで続いた•28。風倉のパフォーマンスは数枚の写真があり、《変身》では全裸で梁につかまり、《楽器を飲む》ではバルーンで電子オルガンを包みこんでいる•29。彦坂は「テープ・デュエット」の翌月に京都市立美術館で開催された「映像表現’72」展に後述する「フィルム・デュエット」《Upright Sea》を出品•30。柴田もその「プロジェクション・パフォーマンス」に参加した。彦坂、柴田、八田は73年の「京都アンデパンダン」に参加し、おそらく偶然に三人とも色彩を取りいれた作品──彦坂は水色と緋色の布帯を重ねた《Read Music》、柴田は色彩の効果をテーマとする《Affect-Green》、八田は二枚の赤い板を用いた《間》──を発表した•31。雅子+尚嘉の共同作業は両者の作品を組みあわせる「ミート」シリーズに移行し、74年の終わりまでにユニットの作品は「No.10」に達した•32。

反近代の近代主義者

雅子+尚嘉の「テープ・デュエット」は、彦坂の初期作品のなかではあまり光が当てられてこなかったが、彼の当時の近代観と新たな方法の試みがあらわれた重要な作品と考えられる。彦坂は78年に自らの活動をふり返り、次のように図式的に整理した•33。時系順に「イヴェント」、「ミュージック」、「プラクティス」という展開があり、それぞれ「水平面・垂直面」、「単体・対体」、「他者複合・自己複合」に分かれる。水平面のイヴェントには、自宅の床にラテックスを撒く《Floor Event》と、床を含めた自宅の家具をギャラリーに移動する《Delivery Event》がある。「テープ・デュエット」と「フィルム・デュエット」は対体のミュージックに含まれる。この整理から、彦坂の初期作品にとって音楽がいかに重要だったのかがよくわかる。彼の「イヴェント」はジョン・ケージに由来するからである。

先に述べたとおり、彦坂はケージの思想を刀根から学んだ。刀根の理解は論考「イヴェント──記述された音楽と演奏された絵画との間」にまとまっいる•34。その議論を要約してみよう。イヴェントとは言葉によって行為を指示することである。これはハプニングや図形楽譜を乗り越えるために考案された方法だった。ハプニングには乗り越えるべき表現主義が残ってしまっていた。図形楽譜は記号の制度性に無自覚であるために、楽譜と演奏の関係が固定されがちだった。芸術はひとつの制度であり、個々の作品の意義は単独ではなく、社会と関わり歴史をもつ制度によって決まる。図形楽譜の図形はそれが意味するものの広がりが乏しく、図形とそれが指示する行為の結びつきが単独で決まっているかのように見えてしまう。そのために、芸術の意味は単独ではなく、多様なものが関わる制度によって決まることが忘れられてしまう。それに対して、イヴェントの言語は意味に豊かな広がりがあり、この広がりが制度を意識させる。言語と行為のズレが大きくなるほど良い。刀根はこのイヴェントという方法が音楽を越えてあらゆる表現に広がっていると論じた。イヴェントは学生運動を通じて近代美術制度を批判していた彦坂にとって理論的指針となり、表現方法になった。また、彼は刀根を中心とする「現象学研究会」で学んだ現象学的還元という方も重要であると語った•35。

72年2月に発表された「彦坂尚嘉の3つのイヴェント」──《Floor Event》、《Upright Sea》、《Delivery Event》──は『美術手帖』に掲載されたインストラクションに対応する•36。それぞれの作品、自明なものとしての床、環境としての海、道具としての家具という、通常その意味が意識されない、ゆえにその制度が意識されないものを特異な方法で意識させる。彦坂は床にラテックスを撒き、水平の海面を垂直にし、家具をそっくり移動させた。

「イヴェント」に続く「ミュージック」は、イヴェントという方法は継続しながらこう始まる。彦坂は72年5月に《Floor Event》の再演と同時に、自宅の天井板を打ち砕く《Celling Music》を上演。6月に《MILK-CRASH Carpet Music》、9月に「テープ・デュエット」。10月の「フィルム・デュエット」《Upright Sea》はいわば「テープ・デュエット」の映像版である。彼は海を撮影した16mmフィルムをループにして2台の映写機にかけ、ループの一部は床を引きずるようにする。そして、向かいあった2つの壁に映像を映す。こうして見ると、「ミュージック」には建築に対する意識が明らかである。またその始まりには暴力性の高まりも見られる。

彦坂は近年、建築をめぐって次のような興味深い議論をした。彦坂が自身の作品はイヴェントという方法で制作されたと語った後、建築家南泰裕はこう指摘した。

彦坂さんのやっていることというのは、ある意味、美術の伝統的な制度を解体しようとして、作品を制作したときに、常に建築的な何かが侵入してくる、ということなのかも知れないですね。[中略]「壁に安定した作品を展示する」という美術の自動性を批評的に再考したときに、床や壁面、あるいは海水面といった、別次元の面が見いだれているんですね•37。

彦坂はこう答えて、自身の近代観を語った。

だから近代というのは、建築から美術が自立した、純粋芸術が成立したかのような幻想を言うわけでしょ。で、僕だったら、それを否定というよりも殺そうとするわけですよ。で、もう一回こう建築に付き戻そうとするわけですよ。[中略]ただ誤解して欲しくないのは、これは方法を自覚化しようとする意志で選んでいる《方法》なのですね。

彼はこの殺そうとする相手は自分自身であると言う。彦坂は近代主義者としてイヴェントと現象学的還元という近代的方法を徹底させながら、同時に作品に建築を取りいれて、近代と前近代の関わりも探ろうとする。そして、この作業には暴力がつきまとう。こうした彦坂の近代観は先に彼の「ミュージック」に見てとれた。

「ホワイト・アンソロジー」で暴力性が極まった後に発表された「テープ・デュエット」で、彼はイヴェントと建築に対する意識を継続しながら、2つの新たな試みを取りいれた。ひとつは柴田という対になる他者の介在である。彼らの共同作業は少なくとも一時期、暴力性に抑制をかけたかもしれない。もうひとつはミニマル・ミュージックの作曲家スティーヴ・ライヒのテープ音楽《Come Out》(1966)から学んだ方法「フェイズ・シフティング」である•38。彦坂は重ねあわせたイメージをずらしていくこの方法を後の《51音のプラクティス》にも使ったと言うが、私はまだ詳細を確認できていない。


[註]
1|彦坂尚嘉「『大音楽会〈ホワイトアンソロジー〉──1972年ルナミ画廊』」(以下「大音楽会」)[リーフレット01頁]。
2|たにあらた「〈反覆〉の理論と感性──雅子+尚嘉について」『記録帯』第3号、1973年、35頁。
3|『記録帯』第3号、31頁。作品の詳細が明らかでない部分も多い。日程について、谷新は開催日を「9/14–28」と記した。彦坂は「私は2回くらいで、この催しから撤退してしまっている」と書いた(「大音楽会」)。邦千谷舞踏研究所編集委員会編『凛として、花として──舞踊の前衛、邦千谷の世界』(アトリエサード、2008年、以下『凛として』)には、9月14日、21日、28日に「駒場アンソロジー」が開催されたとある(184頁)。雅子+尚嘉はこの日のどれかに出演したと考えられる。鈴木完侍が撮影した記録写真からは日程の情報はわからなかった。研究所近くの塀に貼られた海の画像の写真があり、これが《SEA FOR WALL》かもしれない。「駒場アンソロジー」の不明点については後述。
4|彦坂「大音楽会」。
5|柴田雅子へのインタビュー[2019年4月20日、群馬]。
6|市川雅「ハプニングの呪力に託す」『美術手帖』第358号、1972年9月号、18–19頁。
7|馬場省吾「刀根康尚の音楽活動について──1960年代からの音楽観の形成と発展の解釈および位置付け」修士論文(横浜国立大学)、2015年、46–47頁。
8|赤土類「邦千谷、舞踊家としての生き姿を追って」『凛として』8–9頁。志賀信夫「邦千谷──日常と前衛」同上、116頁。なお、邦千谷は久保田成子の母方の叔母であり、当時久保田は邦の家に居候していた(久保田成子「邦千谷先生」同上、76頁)。
9|ヨシダヨシエ「日常のなかの物体詩・邦千谷」同上、59頁。
10|小杉武久「地球の音を聞く」『風倉匠展──さわれる原風景を探す』展覧会カタログ、大分市美術館、2002年、8頁。
11|菅章「風倉匠における地と図」同上、14頁。
12|小杉、同上。刀根康尚「風を喰って走る風船」『機關』第12号、1981年、45頁。
13|刀根康尚オーラル・ヒストリー、由本みどりと富井玲子によるインタヴュー、2013年2月5日、日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ[http://www.oralarthistory.org/archives/tone_yasunao/interview_02.php]。刀根康尚『現代芸術の位相──芸術は思想たりうるか』田畑書店、208–215頁。
14|彦坂の活動をたどるには、彦坂尚嘉『彦坂尚嘉のエクリチュール──日本現代美術家の思考』(三和書籍、2008年)所収の「略歴と文献リスト」(坂上しのぶ作成)を参照。
15|刀根はこの年表と風倉、彦坂の関係についてこう評していて興味深い。「その後彦坂と風倉匠はパフォーマンスを協働して、クロスするようになるのだが、この二人のスレ違いは、年表の作成を若干、契機としながら年表作成の糸とカラミ合って暗示的であった。風倉匠が絶対浮上せず潜航に潜航をつづける一方のタイプであるとすれば彦坂は意図的に最後部からスタートして一挙に浮上をつづけるという点で、この年表が想定したモデルを両者が典型的に演じ切っている様は見事という他はない」(刀根、同上、50頁)。
16|八田淳「作品発表記憶」2009年。[http://www.gallerymestalla.co.jp/exhibisions/09/hatta/img/hatta.pdf]
17|鈴木重夫、八田淳「タイトルに代えて……──〈すっかりだめな僕たち〉展」『美術手帖』第352号、1972年2月、190–207頁。
18|彦坂は東京ではなく京都で発表をした理由のひとつとして、京都ではアンデパンダンが続いていたことをあげた。「行先不明・大討論会」『美術手帖増刊「美術年鑑」』1973年、14, 17頁。
19|「わたしは72年8月、初めて同時代の作家から美術家として認められ、彼らが組織した展覧会に招待される」(彦坂尚嘉『反覆──新興芸術の位相』アルファベータブックス、2016年、108頁)。
20|『記録帯』第2号、1972年。
21|中山公男「柴田雅子個展」『芸術生活』第265号、1971年9月、170–171頁。
22|『記録帯』創刊号、1972年。
23|馬場、同上、51頁。
24|このパフォーマンスは松澤宥が71年に下諏訪山中で開催した「音会」で風倉が上演した作品の展開と言えるだろう(『時計の振子、風倉匠』佐野画廊、1996年、127頁)。グループ音楽との深いつながりのためか、バルーンで空気を扱うためか、風倉には音を用いる作品が少なくない。邦千谷舞踏研究所でも69年に「空き缶にヒモをつけた”楽器”を演奏」した(同上、126頁)。
25|八田、同上。
26|「駒場アンソロジー」にも不明な点が少なくない。彦坂はこのイヴェントを自分たちが始めたと記したが、70年に「駒場アンソロジー」を開催したという記載もある(『凛として』184頁)。開催日は木曜夜だったと考えられるが(八田「作品発表記憶」)、73年以降のDMの開催曜日はばらばらである。そこで、このイヴェントは73年以降、木曜夜の定期回とDMを作成する特別回があったと考えられる。
27|八田、同上。「大音楽会」の記述とは異なり、同イヴェントの「1972 10.5–26」のDMには、彦坂が4週にわたり、邦千谷舞踏研究所を含むさまざまな場所で《Upright Sea》を発表すると書かれている。
28|八田、同上。DMにはかわなかのぶひろ、イースト・バイオニック・シンフォニアらも見られる。また、秦野(内田)旬子の回想によれば、ヨシダヨシエ、市川雅、小杉武久、荒木経惟らも参加した(秦野旬子「駒場アンソロジー」『凛として』155頁)。ここには彦坂が屋根にゴム液を撒いたという記述もある。
29|『風倉匠展』58–59頁。
30|『Re:play 1972/2015』展覧会カタログ、東京国立近代美術館、2015年。
31|峯村敏明「表現の現場が展示場から撤退するとき」『美術手帖』第367号、1972年5月、222頁。峯村敏明「空間を取り戻した内的時間──柴田雅子の個展が意味するもの」『みづゑ』第857号、1976年8月、5頁。八田、同上。たにあらた「風化のなかで生きる作品」『美術手帖』第367号、1972年5月、224頁。
32|彦坂、同上、299頁。
33|堀浩哉、彦坂尚嘉「美術に死す」『美術史評』第9号、1978年、80頁。
34|刀根、同上、47–64頁。
35|静和子「ソーシオアートへの展開」『テオリア』第Ⅱ期第6号、2000年、10頁。
36|富井玲子「グローバル化の中で戦後日本美術を考える──彦坂尚嘉《フロア・イベント》をケース・スタディーとして」『若山映子先生ご退職記念論文集』2006年、262–263頁。「紙面開放計画」『美術手帖』第359号、1972年10月、第110–111頁。なお《Upright Sea》は「Wall Event」とも呼ばれる(堀、彦坂、同上、67頁)。
37|五十嵐太郎、南泰裕、新堀学、暮沢剛巳、彦坂尚嘉「幸福な空間・不安な芸術──彦坂尚嘉ソフトマシーンコレクションによる回顧展をめぐって」『彦坂尚嘉作品集』展覧会カタログ、株式会社ソフトマシーン、2007年、21頁。
38|彦坂尚嘉へのインタビュー[2017年10月17日、東京]。彼はLP「New Sounds In Electronic Music」でこの作品をくり返し聞いたという。