方法としての音楽と建築──雅子+尚嘉の「テープ・デュエット」
金子智太郎
この作品は彦坂と八田淳が1972年9月に開催したイヴェント「駒場アンソロジー」で上演された•4。出演者は彼らと、邦千谷と彼女の生徒、そして風倉匠。イヴェントのきっかけのひとつは、同年6月に刀根康尚がルナミ画廊で開催したイヴェント「大音楽会《ホワイト・アンソロジー》」で、彦坂が邦、風倉と共演したことだった。「駒場アンソロジー」は音楽家の刀根、舞踊家の邦、美術家の風倉という戦前生まれの三人の芸術家と、彦坂と柴田、そして京都から東京に移住した八田という戦後生まれの三人の美術家の関わりから生まれた異種交流の場だった。本論考はまず「駒場アンソロジー」の開催までの交流の経緯をたどる。次に雅子+尚嘉の「テープ・デュエット」について彦坂の視点から考察する。柴田はこの作品のアイデアが彦坂のものだったと認めている•5。彼女の作品については別の機会に詳しく論じたい。
舞踊研究所でのインターメディア
6月10日の夜中から翌朝まで開催された「ホワイト・アンソロジー」を、市川雅は一時の熱気を失った後のパプニング・イヴェントと評した•6。刀根は会場にラジオを流し、それが1秒間のノイズに遮られると、天井に張られた大きなパラフィン紙が観客の上に落ちる作品《A Second Music──Broad Casting Version》を発表した•7。風倉は《KABARA》と題されたバルーンを使ったパフォーマンスを、邦は鈴木裕子、辻村和子、内田旬子らと《6月の遊戯》を上演した。彦坂の《MILK-CRASH Carpet Music》はこれらの作品のあいだに行われた。彼は刀根の部屋にあったカーペットを会場に敷き、これを数人で観客を押しのけながら一晩のうちに何度も裏返して敷き直した。イヴェントの最後に、床に悪臭のするラテックスの液を撒いた。
刀根、邦、風倉の交流は60年前後までさかのぼる。11年生まれの邦は舞踊とともに40年代から労働運動にも取りくんできた•8。57年に開設した舞踊研究所は彼女の社会活動の延長であり、大野一雄、土方巽ら舞踏家をはじめ、さまざまな人物が訪れた。ビアノの伴奏をきっかけに知り合った水野修孝を通じて、まだ学生だったグループ音楽のメンバー(小杉武、塩見允枝子、戸島美喜夫、刀根康尚、水野修孝)もそこに加わった•9。このころより邦はおそらく主に刀根を通じて実験音楽家ジョン・ケージの思想に傾倒していった。
小杉は、風倉と初めて出会ったのは59年の「読売アンデパンダン展」だったと語る•10。刀根が《テープレコーダー》(1962)を出品してから、グループ音楽のメンバーは同展に何度も参加した。風倉は60年の同展をきっかけに結成されたネオ・ダダイズム・オルガナイザーズに加入。焼きごてを胸に当てるといった過激なパフォーマンスを行い、またこのころからバルーンを使った•11。グループ音楽と風倉は交流を深め、風倉がグループ音楽のメンバーを自称したこともあった•12。刀根、邦、風倉は早くも63年に草月ホールでの「SWEET 16 パフォーミング・フェスティバル」に揃って出演した。
刀根は66年に赤瀬川原平の千円札裁判の支援活動をした後、69年には教員をしていた青山デザイン専門学校の学生運動に参加する•13。このとき彦坂と出会い、彼らは「現象学研究会」を始めた。この時期、彦坂は多摩美術大学のバリケード闘争に関わり、7月には「美術家共闘会議(美共闘)」に設立メンバーとして加入•14。彼は当時、刀根から前衛芸術や現代音楽をめぐる知識を学んだという。刀根は70年に著書『現代芸術の位相──芸術は思想たりうるか』(田畑書店)を出版。彦坂は同年、論考「李禹煥批判──《表現》の内的危機としてのファシズム」を発表した。71年から両者は60年代前衛芸術の総括をきっかけに、現代美術の50年間をふり返る年表の作成に取りかかった•15。
「駒場アンソロジー」の始まりとその後
69年に京都で作家活動を始めた八田は、翌年4月に東京に移住し、東京と京都を往復しながら作品を発表した。例えば、70年12月に田村画廊で石、紙、ロープ、電気コード、鏡、布などを使用した個展を開催•16。関西の若手作家が集まった71年のグループ展「すっかりダメな僕たち」には中心人物のひとりとして関わった•17。彦坂と出会ったのは両者の就職先の工芸会社だった。それまでに彦坂も自宅での個展の後、柏原えつとむの紹介で、72年2月に京都のギャラリー16と京都書院で展示をしていた•18。「ホワイト・アンソロジー」の後、8月に八田とともに「すっかりダメな僕たち」の続編「活躍する僕たち」展に出品•19。八田は彦坂が組織した美術運動組織「美共闘REVOLUTION委員会」の機関誌『記録帯』に作品を掲載した•20。
柴田雅子は71年7月に村松画廊で初めての個展を開き、青のグラデーションを基調とした絵画、床に砂を長方形に敷きつめた作品、綿でふちどったキャンバスなどを展示した•21。同年11月に長さ3m、断面30cm四方のコンクリートブロックを10本、砂浜から海中に向けてずらしながら並べた《鵠沼海岸に於ける作品呈示》を発表•22。650kgのブロックは15日の展示期間に少しずつ移動して砂に埋まった。この作品も『記録帯』創刊号に取りあげられた。
刀根、邦、風倉、彦坂が「ホワイト・アンソロジー」で顔を合わせた後、刀根は渡米し、彦坂と八田が「駒場アンソロジー」を始めた•23。日中は幼稚園として使われる部屋の椅子がすべて壁際に寄せられ、中央に広い空間がつくられた。記録写真には何回分のものかはわからないが、さまざまなパフォーマンスが見られる。邦は研究所生徒の内田、邑松央恵らとともに、会場にある物──花瓶、靴、ビニールシート、オープンリールテープなど──を使って即興で踊った。黒い袋に入り、袋ごとロープで体を縛られて床に横たわって、ふくらませたバルーンとチューブのようなものでつながれたのは風倉だろうか。《線による共振》と題されたパフォーマンスでは、彼は糸をアップライトのピアノ線に結び、さらに会場に張りめぐらせ、はじいて音を聞いた•24。八田は壁にはめられた大きな鏡を粘着テープで覆い、それをあちこち少しずつ割くことで鏡に映る像を次第に復活させた•25。また、天井からいくつもの布を吊り、空間を分割した。出演者の他には鈴木、赤土類、写真家の楠野裕司、美共闘の堀浩哉、山中信夫らの顔が確認できる。
以来「駒場アンソロジー」は毎週開催されるようになった•26。初回のメンバーが揃ったのは始めのころだけだった。彦坂は「2回くらい」だけ、八田は11月まで参加した•27。以後は邦、風倉、呉埜孔(楠野隆夫)、研究所生徒らを中心に80年代始めまで続いた•28。風倉のパフォーマンスは数枚の写真があり、《変身》では全裸で梁につかまり、《楽器を飲む》ではバルーンで電子オルガンを包みこんでいる•29。彦坂は「テープ・デュエット」の翌月に京都市立美術館で開催された「映像表現’72」展に後述する「フィルム・デュエット」《Upright Sea》を出品•30。柴田もその「プロジェクション・パフォーマンス」に参加した。彦坂、柴田、八田は73年の「京都アンデパンダン」に参加し、おそらく偶然に三人とも色彩を取りいれた作品──彦坂は水色と緋色の布帯を重ねた《Read Music》、柴田は色彩の効果をテーマとする《Affect-Green》、八田は二枚の赤い板を用いた《間》──を発表した•31。雅子+尚嘉の共同作業は両者の作品を組みあわせる「ミート」シリーズに移行し、74年の終わりまでにユニットの作品は「No.10」に達した•32。
反近代の近代主義者
雅子+尚嘉の「テープ・デュエット」は、彦坂の初期作品のなかではあまり光が当てられてこなかったが、彼の当時の近代観と新たな方法の試みがあらわれた重要な作品と考えられる。彦坂は78年に自らの活動をふり返り、次のように図式的に整理した•33。時系順に「イヴェント」、「ミュージック」、「プラクティス」という展開があり、それぞれ「水平面・垂直面」、「単体・対体」、「他者複合・自己複合」に分かれる。水平面のイヴェントには、自宅の床にラテックスを撒く《Floor Event》と、床を含めた自宅の家具をギャラリーに移動する《Delivery Event》がある。「テープ・デュエット」と「フィルム・デュエット」は対体のミュージックに含まれる。この整理から、彦坂の初期作品にとって音楽がいかに重要だったのかがよくわかる。彼の「イヴェント」はジョン・ケージに由来するからである。
先に述べたとおり、彦坂はケージの思想を刀根から学んだ。刀根の理解は論考「イヴェント──記述された音楽と演奏された絵画との間」にまとまっている•34。その議論を要約してみよう。イヴェントとは言葉によって行為を指示することである。これはハプニングや図形楽譜を乗り越えるために考案された方法だった。ハプニングには乗り越えるべき表現主義が残ってしまっていた。図形楽譜は記号の制度性に無自覚であるために、楽譜と演奏の関係が固定されがちだった。芸術はひとつの制度であり、個々の作品の意義は単独ではなく、社会と関わり歴史をもつ制度によって決まる。図形楽譜の図形はそれが意味するものの広がりが乏しく、図形とそれが指示する行為の結びつきが単独で決まっているかのように見えてしまう。そのために、芸術の意味は単独ではなく、多様なものが関わる制度によって決まることが忘れられてしまう。それに対して、イヴェントの言語は意味に豊かな広がりがあり、この広がりが制度を意識させる。言語と行為のズレが大きくなるほど良い。刀根はこのイヴェントという方法が音楽を越えてあらゆる表現に広がっていると論じた。イヴェントは学生運動を通じて近代美術制度を批判していた彦坂にとって理論的指針となり、表現方法になった。また、彼は刀根を中心とする「現象学研究会」で学んだ現象学的還元という方も重要であると語った•35。
72年2月に発表された「彦坂尚嘉の3つのイヴェント」──《Floor Event》、《Upright Sea》、《Delivery Event》──は『美術手帖』に掲載されたインストラクションに対応する•36。それぞれの作品は、自明なものとしての床、環境としての海、道具としての家具という、通常その意味が意識されない、ゆえにその制度が意識されないものを特異な方法で意識させる。彦坂は床にラテックスを撒き、水平の海面を垂直にし、家具をそっくり移動させた。
「イヴェント」に続く「ミュージック」は、イヴェントという方法は継続しながらこう始まる。彦坂は72年5月に《Floor Event》の再演と同時に、自宅の天井板を打ち砕く《Celling Music》を上演。6月に《MILK-CRASH Carpet Music》、9月に「テープ・デュエット」。10月の「フィルム・デュエット」《Upright Sea》はいわば「テープ・デュエット」の映像版である。彼は海を撮影した16mmフィルムをループにして2台の映写機にかけ、ループの一部は床を引きずるようにする。そして、向かいあった2つの壁に映像を映す。こうして見ると、「ミュージック」には建築に対する意識が明らかである。またその始まりには暴力性の高まりも見られる。
彦坂は近年、建築をめぐって次のような興味深い議論をした。彦坂が自身の作品はイヴェントという方法で制作されたと語った後、建築家南泰裕はこう指摘した。
彦坂はこう答えて、自身の近代観を語った。
彼はこの殺そうとする相手は自分自身であると言う。彦坂は近代主義者としてイヴェントと現象学的還元という近代的方法を徹底させながら、同時に作品に建築を取りいれて、近代と前近代の関わりも探ろうとする。そして、この作業には暴力がつきまとう。こうした彦坂の近代観は先に彼の「ミュージック」に見てとれた。
「ホワイト・アンソロジー」で暴力性が極まった後に発表された「テープ・デュエット」で、彼はイヴェントと建築に対する意識を継続しながら、2つの新たな試みを取りいれた。ひとつは柴田という対になる他者の介在である。彼らの共同作業は少なくとも一時期、暴力性に抑制をかけたかもしれない。もうひとつはミニマル・ミュージックの作曲家スティーヴ・ライヒのテープ音楽《Come Out》(1966)から学んだ方法「フェイズ・シフティング」である•38。彦坂は重ねあわせたイメージをずらしていくこの方法を後の《51音のプラクティス》にも使ったと言うが、私はまだ詳細を確認できていない。