『大音楽会〈ホワイトアンソロジー〉』──一九七二年、ルナミ画廊•1
彦坂尚嘉
夜の一晩の催しなのに、狭いルナミ画廊がいっぱいになるほどの人が来た。あまり人が来るので、腹立たしく思ったことを覚えている。私にとっては、人が多すぎると、自分の予定している作品が、困難さを増すので、こまった事態になったと思った。瀧口修造先生や、写真家の安齊重男さんも来られた。
邦さんのダンスは、何をなさったのか覚えていない。自分のことで精一杯であったのと、若かったから視野が狭くて、ダンスの教養もなくて、記憶に残っていない。古くて、微温的という印象は残っている。数人の女性で踊られた。小さな方であったのと、優しい面長の方であったくらいである。それと白いドレスで、長いスカートをはいておられたのを覚えている。それと、このパフォーマンスで、私はラテックスというゴム液を流しているのだが、これは同時にアンモニアの臭いがひどくて、これに追い立てられて画廊を出て行く邦さんの後ろ姿を覚えている。
風倉さんは、バルーンを膨らませて、それを身体に巻き付けながらのパフォーマンスであった。伝説をいくつも聞いていたが、話で聞くほどには面白くなかった。
刀根康尚さんは、大きなトレーシングペーパーを天井に磁石でつけてあって、ラジオの放送と組んだ音楽で、FMラジオの中で、何かの信号が流されると、この天井の大きなトレーシング・ペーパーが落ちてくると言うものであったが、これもさしては面白くなかった。刀根さんは優れた人で、刀根さんのパフォーマンスは、〈超一流〉の面白さに満ちているのだが、パフォーマンスをしない作品は、だいたい、いつもドジで、面白くなくて、古い前衛の臭いだけがして、若い私は、軽蔑していたものであった。もうすでにポスト前衛になっていて、前衛という宗教に依拠した作品は、くだらなく見えたのである。
後は何を書けばいいのだろうか? 私はこのパフォーマンスで、事実上デビューしていくのだが、そういう意味では若いというか、当時二十六歳である。
作品はカーペット・ミュージックというもので、麹町の刀根さんがアパートから、刀根さんの部屋に引いてあるカーペットを、強引に引っ張り出して、それを画廊まで運び、画廊に敷く。観客はこのカーペットの上に座って、邦さんや、風倉さん、刀根さんのパフォーマンスを見ているのだが、予定が立ててあって、時間が来ると、数人で、このカーペットを強引にひっくり返して敷き直す。これを繰り返したのだ。何しろ観客の人数が多いのと、会場が暗くなっている時が多かったので、この中で、強引に数人でカーペットをひっくり返していくのは、暴力であって、大仕事であった。
これらは、あらかじめ観客に渡してある時間表にそって進められるので、観客が多くて、座っているカーペットをひっくり返すことがどれほど不可能な状態でも、とにかく強引に進めないと、作品にならないから、暴力的にならざるを得ない。最後は、先ほども書いたように、ラテックスというゴム液を、数人で、会場の数カ所から同時に流しはじめる。ラテックスは一斗缶に入っていて、六缶ほどであった。白い色で、きれいなのだが、アンモニアのガスがすごい臭いで、みな、何が起きたかわからないままに、画廊の外に追い出されていった。そのアンモニアのガスの中に取り残されたのが瀧口修造先生で、杖をつかれて一人立っておられた。救出に私は走って部屋に入って、無事に何事もなく終わったが、観客は怒って、何人かと殴り合いになった。ルナミ画廊の先代も激怒して、たいへんであった。その時は0時を過ぎていて、もう国鉄の電車はなくて、人々は帰る足もなくて、しばらく画廊の前にたむろしていた。
その後、『駒場アンソロジー』という催しを、邦さんの駒場のアトリエで、作家の八田淳さんと一緒に始める。この企画については、刀根さんは関係がなく、一度も参加していない。この頃、短い時間だったが、私がある工芸会社に勤めていて、そこには八田淳さんもいたので、その関係で、八田さんとの話の中で、邦さんの駒場のアトリエでの定期的な催しの話になったのだろう。
この時のダンスも、邦さんが何を踊ったのか覚えていない。赤土類さんから、この邦さんの思い出を書けといわれたのだが、二千字という文字数まで書こうとすると、後は、自分のことを書いて、文字数を増やすしかない。
私は、昔のリールを使ったオープンデッキのテープレコーダーを使って、海の音を流す作品をやっている。テープを長くひっぱりだして、床を這わせ、さらに屋根の上に出して、屋根をまたいで、反対の軒から降ろして、再び部屋に入れて、つまり大きなループをつくって、屋根を抱くようにして、そのテープをテープレコーダーで音を出すという作品で、音は海の潮騒の音であった•2。
私は二回ぐらいで、この催しから撤退してしまっている。作品の相性が、八田淳さんとも、邦さんとも合わなかったからだ。八田さんの作品が、何というか、軽いというか、デザイン的な合法性の高いもので、嫌になってしまった。邦さんのダンスも、たぶん私には、わからなかったのだろうと思う。詳しいことは覚えていない。それ以後お付き合いはない。
(二〇〇七年十月七日)