行為に寄り添う音──新里陽一《帝王切開》
金子智太郎
《帝王切開》は画廊での展示と、それに先立つ6つの「RESEARCH」と呼ばれる行為、展示中の2つの「RESEARCH」、そして「研究発表」からなる。画廊には机、医療器具戸棚、リーダーズ・ダイジェストのテープレコーダー、鉄製のアングルからなる直方体の枠組などが並ぶ。この鉄骨に穴を開ける行為が「RESEARCH 15」である。机や棚には多くの小さなガラス容器やそれまでの「RESEARCH」の記録を収めたファイルなどがある。画廊の入口にはタイムレコーダーが置かれ、その横の壁に架けられた黒板には予定表が貼られている。新里は展示期間中、毎日画廊を訪れてタイムレコーダーを押し、予定表に書かれた行為を実行する。
この作品の詳細は新里が1982年に出版した著作『物語』に書かれている*1。また新里の元に展示と「RESEARCH」の写真やメモを収めたファイル、5本のカセットテープが残されている。そのうちの1本は「研究発表」で再生された。それ以外のテープには朗読、足音、ホッチキスを留める音、電話を通じた語りかけが録音されている。これらは「RESEARCH」のなかで再生するために前もって準備されたもので、展示には使用されず、会場に置かれた資料にメモがあるだけだった。このような音の使いかたは、私が知るかぎりでは60年代、70年代の日本美術においてはきわめてユニークである。
韜晦体
1949年生まれの新里は、日本大学芸術学部美術学科在学中に展覧会「娼婦の館」をときわ画廊で開催した*2。太田正明の「化性に因る」展との共同開催だった。新里は同展に鉄製のアングルからなる長辺が1.5メートルほどの直方体の枠組を6つと、長辺が1メートルほどの鉄製の直方体の箱を展示した。箱は側面に数センチの穴があり、「OPENFREE」と書かれたフタがつけられ、なかにビーカー、シャーレ、試験管、虫ピン、毛皮などがある。枠組にはラテックス入りの試験管、革ベルトなどが付けられ、周囲に小さな鉛のかたまりが置いてあるものもある。箱には《娼婦》、枠組には《ナマリと娼婦》、《鉄の娼婦》といった名前がある。
当時より新里の作品を論じてきた美術評論家の平井亮一は、この展覧会が強く印象に残ったという*3。平井はその理由を、まずは当時の日本美術の状況から説明する。60年代以降の日本美術においては、物体の造形を通じて作家がもつ観念を鑑賞者に伝えようとする「表現」が、避けられる状況があった。新里はこのころこうした状況の中心にいたもの派の作家、例えば、大学の先輩に当たる原口典之らと交流していた。「娼婦の館」の作品はたしかに作家の主観の表現を拒絶するかのようなミニマルな外見をしている。しかしその細部やタイトルは、この作品と彼自身の感情や記憶につながりがあることを鑑賞者に意識させる。平井は、観念とのつながりを表面的には隠し、しかし鑑賞者にそれを悟らせるような新里の作品を「韜晦体」と称する*4。平井とともに新里の作品に注目してきた美術評論家の谷新もまた、匿名性や集団性が重んじられた時代に、私性や物語性、ポエジーに満ちた彼の作品は例外的だったと指摘する*5。新里自身はこのころマルセル・デュシャンの洗練された官能性を意識していたという*6。
新里の作品を当時の状況のなかにおいて考えると、次々と疑問がわく。彼の表現は60年代以降に避けられていた表現と異なるのか。異なるとすればどう異なり、なぜ70年代前半にこうした表現が生まれたのか。平井と谷は新里の作品を、70年前後に生じた日本美術における転換のひとつの特異なかたちとして解釈しようとする。しかし私自身は、彼の作品の概要を同時代の状況のなかに置こうとしても、違和感のある考えしか浮かばなかった。まずは作品の細部をたどろう。
新里は「娼婦の館」の次に、72年9月にときわ画廊で個展「THE WOMB」を開催した。同展については『物語』に具体的な記述がないが、「娼婦の館」に出品されたようなオブジェが「女体の構造に従い並べられ」ていたらしい*7。二つの展示に共通する観念は、平井の言葉を借りれば「ナルシシズムと異性願望のアマルガム、それといく種類かの物質・物体にからむ変容願望」、「いわば新里流汎性愛主義」と言えるだろう*8。だが、平井はまた別の文章でこうした観念を「普通名詞として誰にも通じるかもしれない身辺のありふれた感性」であるとも述べる*9。娼婦や女体などの観念はそれだけではありふれているかもしれないが、鉄製の直方体の枠組と結びつけられるために異様な印象を鑑賞者にもたらす。
新里は「娼婦の館」について観念と物体の関わりついてこう語る。
物体から観念が生まれるのでも、その逆でもなく、むしろ両者はときに対立していて、新里自身が作業を続けていくために結びつけられた。引用の最後の文章もあくまで一時的な、壊れやすい結果なのだろう。この文章はこう続く。「僕の緊張する意識は僕の道具の操作をすることに集中した。そして道具たちを並べながら、“娼婦の館”と題して展示し終えた時、僕の感性はもろくも崩れ、僕は肉体として疲労していた」。《帝王切開》ではこのような観念と物体の関係が、物体を越えて生活や社会へと広がった。
行為に寄り添う音
新里がいつ「RESEARCH」と呼ぶ行為をはじめたのかは記録が残っていない。記録があるのは1972年11月に行われた「RESEARCH 7」からである。まずここから《帝王切開》を舞台とする「RESEAECH15」までを整理してみよう。これらは写真とメモで記録され、会場に資料として展示された。
RESEARCH 7 1972年11月14日 日本大学芸術学部美術学科一階ロビー
塩の結晶を観察する実験を行う。新里が『化学実験指針』を朗読するテープ(90分)の終了まで。
RESEARCH 8 1972年11月18日、19日 日本大学芸術学部美術学科彫刻教室地下一階裏庭
眼に止まったものを収集し、翌日収集したものを元の場所に戻す。両日とも足音を録音したテープ(120分)が終わるまで。
RESEARCH 9 1972年11月24日 横須賀市田浦港町旧倉庫群
倉庫の壁のボルトを新しいものに交換する。
RESEARCH 10 1972年11月28日 横須賀市田浦港町旧倉庫群
倉庫内にて、棚に数十本の虫ピンを刺す。流し場にある木製容器にアンモニア水を流し込む。ル・クレジオ『戦争』(1970)を朗読する。ホッチキスの音を録音したテープ(120分)が終わるまで。終了後、朗読中に読めなかった文字を使って文章をつくる。
RESEARCH 11 1972年12月4日 日本大学芸術学部内公衆電話
美術関係者に電話をかけ、あらかじめ録音したテープを再生し、相手の声を録音する。
RESEARCH 12 1972年12月28日 日本大学芸術学部美術学科四階廊下、教室
レコードプレーヤーでモーツァルトのレコードを再生する。AB面が終わるまで。
RESEARCH 13 1973年1月22日~27日 ミヤマ画廊
ボルトに一日一本ニッケルメッキをする。
※グループ展「L’EXILÉ・追放者II」において《RESEARCH 13 & MATERIALS FOR RESEARCH WORK》と題されて発表された。画廊で行為する新里のまわりには必要な道具だけでなく「研究資料」の戸棚もあり、中にさまざまなオブジェ(後述)が置かれた。
RESEARCH14 1973年3月13日~17日 田村画廊周辺
RESEARCH 8で使った足音を録音したテープを再生するレコーダーを持ち、テープが終わるまで動き回る。テープが終わった地点で虫ピンを一本どこかに刺す。
RESEARCH15 1973年3月12日~17日 田村画廊
画廊に展示された鉄製の直方体の枠組にドリルで穴を開け、ボルトを一日八本付ける。
研究発表 1973年3月18日 田村画廊
展示の搬出を終えたあとの画廊でRESEARCH 15の録音(120分)を再生する。
※RESEARCH 14から研究発表までは展覧会「帝王切開」にて。画廊の壁にかかる黒板に予定表が貼ってある。新里は毎日タイムレコーダーを押し、予定にしたがって行為をした。
こうして一覧すると、テープレコーダーをはじめとする音響メディアがたびたび登場することは、「RESEARCH」全体の特徴のひとつと言えるだろう。テープレコーダーの役割は行為のはじまりと終わりを告げる時計であり、行為に色をつけるサウンドトラックである。ときには新里の声を代弁し、エルヴィスと彼の共演の観客にもなる。
新里は《帝王切開》についても簡潔に核心を明らかにするような文章を書いた。
ここでは、物質に比喩を加えるのではなく、物質が意識の比喩とされる。しかし、おそらく新里の作品にとって物質と意識の関係は相互的なのだろう。彼はこの関係を先の引用でもそうだったように「位置」という言葉で語る。そして《帝王切開》においてはこの関係が物体を越えて生活、社会へと広がる。
『物語』の《帝王切開》をめぐる一節のほとんどは、主観的内容を含まない記述である。だが、そのあいだに唐突に実生活の経験らしき文章が挿入される。パートナーの妊娠、彼女との結婚、これらに対するとまどいをめぐる文章である。《RESEARCH 13》と《帝王切開》に展示されたオブジェには、生殖にかかわるタイトルがつけられた──虫ピン入りシャーレとラテックス入り試験管を収めたレターボックス「卵巣」、鉛入り注射器「精子」、印鑑ケース「妊婦」にはアンモニア水入りメスシリンダーが入っている。
谷は《帝王切開》における新里の行為を、「生存の位置確認」や「外界と自身の心的バランスを調節する」と表現する*12。そして、行為に使われるさまざまな道具を、この位置やバランスを測定したり記録したりするためのものと考える。例えば、タイムレコーダーやテープレコーダー。各「RESEARCH」を比べると、何かと何かを結びつけ固定する物体や作業も目につく。ボルト、ホッチキス、虫ピン、結晶をつくること、メッキをすること、電話を録音すること。このような要素はすべて新里の意識や生活によって意味づけられている。また新里はこれらの物体や作業を通じた実験から学び、自らの位置を再確認する。
新里はこの展覧会を開催したとき、まだ大学生だった。リーダーズ・ダイジェストのレコーダーは語学学習のための教材であり、研究の道具にふさわしい。《帝王切開》においてレコーダーは、新里とさまざまなやりとりをするパートナー、もしくは彼自身の分身という意味をもっていたのかもしれない。「RESEARCH 14」の足音は「心臓の鼓動と同じ間隔で」鳴ったという*13。「研究発表」の写真の一枚は、新里が去ったあとの画廊でレコーダーだけがこれまでをふりかえるかのように撮られた。
《帝王切開》以降の音
1981年まで続いた新里の「娼婦シリーズ」にリーダーズ・ダイジェストのレコーダーはたびたび登場した。「帝王切開」に続く個展「歯痛」(1973)では、レコーダーが先の「卵巣」の中身、「精子」「妊婦」と一緒に水色のバスケットに入れられて展示された。このときレコーダーはたくさんの小鳥が鳴き続けているような音を再生した。新里は《イヴェント鵠沼海岸》(1973)ではこのバスケット一式を持ってピクニックをした。《イヴェント藤沢飛行場》(1973)でもカゴに入れたインコなどと一緒にバスケットを持参した。そして「マイクを手に持ち、座った位置から前後左右観察可能な限り、見る行為内から観察によって生じる自分の体験上の発想、記憶等その他を声に出して録音」した*14。バスケットは個展「挿話Ⅰ」(1974)「静かな生活より「静物、ドラマのような微笑」考 奥様!コーンスープをどうぞ。」(1977)の写真にも見られる。「挿話Ⅱ」(1974)では彼の朗読の録音を会場に流した。
新里の作品と音のかかわりはテープレコーダーに限らない。先のインコはたびたび展示の一部になった。日学芸術学部出身者からなるグループ「U-2」による「資料展」(1974)に、新里はエルヴィスのレコード8枚を展示した。神奈川県民ギャラリーで開催されたグループ展「資料展」(1976)では、新里はポマードと紙製の衣装でエルヴィスのコスプレをして、レコード・ジャケットを見ながら表情や動作をまねた。この行為のタイトルはエルヴィスの曲にちなむ「心のとどかぬラブ・レター」である。
「娼婦シリーズ」以降、テープレコーダーの使用回数は減るが、しかしまったくなくなるわけではない。新里は《シネラリア & RESEARCH-16》(1988)で「RESEARCH」を再開した。このときは会場のある三浦半島を散策して物を収集し、記録するなどの行為をした。そのさい《歯痛》で使用した鳥の声を流したという*15。グループ展「K2NT134(浸入態・ふたたびの夏に)」において発表された《心のとどかぬラブ・レター2(又はRESEARCH 17)》(1992)では、新里は勝又豊子の展示のなかに鳥の声を発するレコーダーなどを置いた。90年代半ば以降は、脈絡なく生じる独白を録音する「言葉の採集(鳥の言葉)」シリーズ、言葉になる前の発声音を発して録音する「僕の言葉」シリーズが続いた*16。