リーフレット 7-2


他者の顔、他者の鼓動──今井祝雄《TWO HEART BEATS OF MINE》

金子智太郎

「日本美術サウンドアーカイヴ──今井祝雄《TWO HEARTBEATS OF MINE》1976年」リーフレット、2019年、3-4頁。



直径20センチほどのスピーカーユニットが2つ、表側どうしを貼りあわされて吊られている。どちらもエンドレステープを再生するテープレコーダーにつながり、心臓音を鳴らす。振動板の揺れが心臓の拍動を思わせる。しかし、2つの心臓音はリズムも音質も異なり、絡みあいながら少しずつずれていく。このキネティック・サウンド・スカルプチャーは人間の胸の高さにある。スピーカーケーブルについた荷札にはそれぞれの心臓音が録音された日──「APR.18,1975」「SEP.17,1976」──が記してある。奥の壁には30歳の今井祝雄の顔を写した《ポートレイト/私だけの》(1976)が掛かる。この作品は《TWO HEATBEATS OF MINE》(以下《HEARTBEATS》)も彼のポートレイトであることを示唆する。それなら、どうして2つの異なる心臓音を鳴らすのか。鏡に印刷された《ポートレイト/私だけの》は、今井が前に立つと映りこむ顔と過去の顔が重なる高さにある。異なる時間と結びつくイメージを重ねあわせることは2つの作品に共通する。

本論考は《HEARTBEATS》の成りたちを、今井の60年代末ごろの活動からふりかえるかたちで見ていきたい*1。異なる時期の録音を重ねあわせるという発想がどうして生まれたのか。これまで、今井の主に70年代から80年代前半の作品について、多くの論者が時間の表現という観点から考察してきた*2。この論考は、これらの議論のなかに《HEARTBEATS》をあらためて位置づけ、音や録音が今井のこの時代の活動にとって、写真やヴィデオといった視覚メディアと同じように重要な役割を担ったことを示したい。

本題に入る前に、今井の経歴と音とのかかわりを概観しておこう。1946年生まれの今井は、60年代から具体美術協会のもっとも若い世代のメンバーとして作品を発表した。70年代より写真やヴィデオを使った作品が増え、80年代はそれらを用いたパフォーマンスも行なった。80年代から90年代にかけてはたくさんのパブリック・アートを手がけた。2000年以降は具体における活動をふりかえりながら、現在もさまざまな方法を組みあわせた活動を続けている。

こうした今井の経歴には音とのかかわりが少なくない。17歳ではじめて開いた個展に出品され、具体での活動の中心になった白いレリーフには、廃品のスピーカーユニットが使われた*3。最初に音を使用したのは、67年の実験映画《円》だった*4。70年代には心臓音を使った作品のシリーズを制作。93年、今井とそれまで長く親交のあった藤本由紀夫が、岡本隆子とともに「MUSIC every sound includes music」展を企画し、今井は《HEARTBEATS》を出品した*5。この展覧会は、藤本や小杉武久、鈴木昭男、ニシジマ・アツシらの80年代以降に「サウンド・アート」と呼ばれる作品と、具体の嶋本昭三、村上三郎、ヨシダ・ミノル、そして今井の作品を並べ、いわば具体を起点に戦後日本美術における音をたどろうとするものだった。今井はこの後も2つのパブリック・アート作品を藤本と共同制作した。2000年以降も音とのかかわりは続き、例えば、2017年の個展「音のケルン」はレコードがテーマになった。

複層化と重ねあわせ──70年代の今井の軌跡

今井は写真による作品について語った80年の文章で、自身の70年代の活動をふりかえった*6。69年ごろから彼は、アトリエでつくられるのではなく展示空間に密着した作品を手がけた。大日方によれば、60年代後半の今井の活動は「モノの造形からよりトータルな知覚の場の創出」に移っていた*7。そうした作品は写真としてしか残らないため、今井は自ら写真をとりはじめ、写真による作品という発想が生まれた。73年ごろから眼とカメラの違いに注目する作品の制作をはじめた。このころの作品を大日方は「“いまここ”を複層化する」試みと考える*8。

今井は次第にこの方法に限界を感じるようになり、76年からは日常生活のなかで撮影される作品が増えた。このころ時間を強く意識し、「時間の流れではなく、時間の厚み」に注目するようになったという*9。大日方はこの時期の方法を「何かと何かを―別の位相にある要素どうしを、時間のずれを、複数の“いまここ”の断片を―重ね合わせる」試みと表現する*10。この年に《HEARTBEATS》と《ポートレイト/私だけの》が発表された。そして、79年に今井の代表作のひとつ《デイリーポートレイト》がはじまる。インスタントカメラで自分の顔を撮影し、翌日その写真を手にして撮影することをくり返すこの作品は、2019年現在まで続いている。

重ねあわせによって時間の厚みを表現する手法は、今井のパブリック・アートの代表作《タイムストーンズ400》(1982)などにも受けつがれていく*11。トータルな知覚の場の表現から時間の厚みの表現へと移りかわるあいだに、心臓音のシリーズは制作された。次にこの時期の彼の作品を詳しくたどっていこう。

層をなす音──《ある偶然の共同行為を一つの事件として》

60年代後半の今井は、大阪万博に向かう大きな流れとなっていた同時代の環境芸術のスタイルを作品に取りいれた*12。環境芸術はモノではなく環境の状態、例えば、光、動き、音など―つまり「トータルな知覚の場」を重視した。66年の「空間から環境へ」展に発表した《白のイヴェント×映像》は白いレリーフと運動、映像を組みあわせる。67年の実験映画《円》はフィルムに丸い穴を開けることで、スクリーン自体の白で円を描く。60年代末、今井はもの派の影響を感じさせる作品も一時期制作した。このときもモノより知覚の場を重視する姿勢は変わらなかった。李禹煥は今井のコンクリートをもちいたインスタレーション《EXISTENCE》(1971)について「状態の関係性すなわち、状態のありようを見えるようにする構造となっているところに、脱オブジェ現象を認めることができよう」と評した*13。

今井が時間とかかわる作品も制作しだしたのも70年ごろだった。《一週間》(1970)は一週間の毎朝同時刻のテレビ画面を撮影した写真シリーズである。《SQUARE-GLASS/GRASS》(1970)は草地にガラス板を置き、その表面が水蒸気で曇るようすなどを写真で見せる。これらの作品はたしかに時間とかかわるものの、《HEARTBEATS》など、70年代半ばの作品とは時間のありかたが異なるだろう。前者は周期的に流れていく時間であり、後者は積みかさなり厚みをなす時間だからだ。

前者と後者のあいだには、いまここの複層化という方法があった。今井は「たとえば、眼と耳について」(1974)でこの方法について詳しく語った*14。《円》のサウンドトラックに使うためにパチンコの音を録音しようとしたとき、意識しなかったBGMの音ばかり録れていたということがあった。別の機会に、喫茶店で店内にかかるフォークグループの歌を聞いていたとき、語りの部分になると周囲の音にまぎれてしまうことに気づいた*15。彼はこれらの経験から、リズムのある音楽と不確定な雑音はまったく異質であり、一方に耳をかたむけようとすると他方は聞こえなくなるという、知覚のはたらきを理解する。さらに今井は、見えるものと見えないものの違いや視覚のはたらきを意識させる自分の写真作品について語る*16。こうした写真作品を大日方は「“いまここ”を複層化する」試みと呼んだ。

今井と倉貫徹、村岡三郎による《ある偶然の共同行為を一つの事件として》(1972、以下《共同行為》)は、今井がこうした、いまここを複層化する知覚のはたらきに関心をもっていたころに発表された*17。3人は大阪市の御堂筋に面した喫茶店「コンドル」の屋上で、3つのトランペット・スピーカーからそれぞれの心臓音を発した。街の騒音と心臓音はほぼ同ホーンに設定された。御堂筋の交通信号に応じて聞こえかたが変わるこの作品を今井は「二つの異質な“音”の出会い」と表現する*18。リズミカルな心臓音と街の騒音の対比は「たとえば、眼と耳について」の議論を思わせる。この作品はいわば音によって空間を複層化する試みである。今井、倉貫、村岡の出会いから生まれた《共同行為》は、結果的にかもしれないが、今井のこの時期の関心を反映していた。さらに、彼の70年代後半以降の作品にはっきりあらわれる、ポートレイトや日常生活、公共空間といったテーマもこの作品に見いだせる*19。

異質なものを重ねあわせる

《共同行為》以降、今井は心臓音シリーズを展開する。《踊る心》(1973)では、仰向けに置かれたスピーカーが彼の心臓音を発し、その振動板が「IMAI」と書かれた紙片をはずませる。彼はこの作品についても、普段から鳴っているはずの音が状況や知覚のありかたに応じて聞こえたり聞こえなかったり、異質感を感じさせたりすることについて語っている*20。また、この作品の心臓音と音楽や他の人の心臓音との「共鳴」や「呼応」にもふれている。そして、このテーマは植松奎二、村岡三郎とのコラボレーション《The Party》(1975)でさらに掘りさげられた。3つのスピーカーユニットとがマン・レイの《破壊すべきオブジェ》(1923)のレプリカとともに、鑑賞者を囲むようにギャラリーの床に置かれ、3人の心臓音を鳴らす。屋上にスピーカーを置く《共同行為》と違ってこの作品は、マン・レイのメトロノームが基準になり、3つの心臓音の違いと組みあわせを強調する。心臓音シリーズには異質なものを重ねあわせるという方法が次第にはっきりあらわれてきた*21。

この時期の今井の映像作品には同じような方法だけでなく、時間の厚みの表現のさきがけもあらわれた。《素描/映像》(1973)で、今井はマスメディアにあふれるイメージのスライドを80枚、15秒ずつスクリーンに映し、フェルトペンでなぞる。この素描はスライドが変わるたびに重ねられていく。ヴィデオ作品《The Braun Tube》(1974)では、ブラウン管に流れるテレビ放送とそこに映りこむ周囲の状況をあわせてヴィデオで撮影する。《M・M》(1974)はマリリン・モンローのポスターをインスタントカメラで撮影し、その写真をポスターの左上部に貼る。また撮影し、その写真を最初の写真のとなりに貼る。この作業をくり返してポスターを写真で覆う。《ビデオスナップ》(1974)はテレビ画面に対して同じ作業をする。テレビ放送は流れていくが、写真は短い時間の厚みをつくりだす。

76年、時間のずれを重ねあわせて長い時間の厚みを表現する3つの作品──《HEARTBEATS》《ポートレイト/私だけの》《ポートレイト0〜20歳》が発表された。《ポートレイト0〜20歳》は今井自身の0歳から20歳までの顔写真をそれぞれ、30歳の彼の顔写真と重ねあわせたシリーズである。こうして見てくると、まずいまここの複層化、そして複数のいまここの重ねあわせという手法の移りかわりのすえに、これら3種のポートレイトが生まれたことがわかる。

他者の顔、他者の鼓動

今井は《ポートレイト0〜20歳》についてこんなエピソードを語った。当時、彼は制作のかたわら幼い息子の写真を撮り、それを見ながら家族で両親のどちらに似ているかなどと話していた。このことが自分自身のアルバムをはじめてふりかえるきっかけになった。

多分、私はなつかしい数々の写真に、息子の像を重ね合わせて眺めていたにちがいなかった。ちょうど三〇歳に制作したこの作品は、息子の成長を横目に、私自身、ひとつの自己確認をしていたのではないかとも、今にして思うのである*22。

今井は息子の顔を通じて、自分の過去の顔と自分が過ごしてきた時間の厚みを再確認したのだ。

このエピソードはこれまで見てきた、いまここの複層化から、複数のいまここの重ねあわせへという手法の移りかわりと結びつくのではないか。今井は自分の顔と重なりあう、とはいえ異質な息子の顔と出会い、自分と比べてみたことから、自分の現在と過去を比べることになった。70年前後に彼は録音や写真を使いながら、いまここのなかに異質なものの存在を意識しはじめた。そして、異質なものどうしを重ねあわせる作業をくりかえし、時間の厚みの表現にたどりついた。

《HEARTBEATS》も、《共同行為》と《TheParty》で鳴っていた倉貫、村岡、植松の心臓音と、今井の心臓音の重ねあわせから生まれたと言えるだろう。もしかすると、今井は息子が生まれる前に病院でその心臓音を聞いて、自分の心臓音と重ねあわせたかもしれない。


[註]
1|本論考は心臓音を用いた作品とその関連作品の展開をたどることに焦点をあわせるため、今井のこの時期のすべての作品を取りあげているわけではない。また、当時の状況―例えば、72年の具体の解散や関西における実験映像シーンなど―についてもここでは考慮できなかった。
2|中島徳博「今井祝雄のパフォーマンス―重層化された時間の体験」『Videotape Performance』展覧会パンフレット、ビデオギャラリーSCAN、1981年。田中淳「今井祝雄」『現代美術における写真―1970年代の美術を中心として』展覧会カタログ、東京国立近代美術館、1983年、46頁。Ming Tiampo,“Video Killed the Radio Star: Norio Imai and the Moving Image,” in Norio Imai (exhibition catalogue), Axel and May Vervoordt Foundation,2013, pp.53-54. 今井祝雄『タイムコレクション』水声社、2015年。浅沼敬子「今井祝雄の映像メディアを用いた作品群について」『北海道大学文学研究科紀要』第152号、2017年、1-30頁。本論考は『タイムコレクション』のテキストを執筆した大日方欣一の議論に多くを負っている。浅沼は大日方の議論を補足しながら「今井の作品においては[中略]時間が人間に優先する」という結論を導いた(27頁)。残念ながらこの結論を検討する余裕がなかった。
3|今井祝雄『白からはじまる私の美術ノート』(以下『白からはじまる』)プレーンセンター、2001年、26頁。今井の文章の多くが同書にまとめられている(ただし若干修正を加えている)ため、同書に収録された文章は同書の参照箇所を記す。また、今井の作品についての情報は主に同書と『タイムコレクション』を参照した。煩雑さを避けるため、作品情報の参照箇所は省略する。
4|《円》の「音響」を担当したのは、安部公房や寺山修司のラジオドラマを手がけた放送作家、山本諭。今井は音素材を提供した。
5|詳細は展覧会パンフレット(ジーベック+HEAR、1994年)を参照。
6|今井、前掲書、81-86頁。
7|今井『タイムコレクション』6頁。
8|同上、10頁。
9|今井『白からはじまる』84頁。
10|今井『タイムコレクション』42頁。
11|今井祝雄『未完のモニュメントまちのアートは誰のもの?』樹花舎、2004年、50頁。
12|今井と環境芸術の関係については、Midori Yoshimoto, “Limitless world: Gutai’s reinvention in environment art and intermedia,” in Gutai: Splendid Playground (exhibition catalogue), Guggenheim Museum Publications,2013, pp.259-264.
13|李禹煥『出会いを求めて』田畑書店、1971年、158頁。
14|今井祝雄「たとえば、眼と耳について」[リーフレット01-02頁]。
15|おそらく海援隊の《母に捧げるバラード》(1973)だろう。
16|個展「角度・位置・距離──写真による」(1973)で発表された作品や《視界-フィルム(祇園)》(1974)など。
17|「雑踏のなかで心臓音ドクドク」『美術手帖』第359号、1972年10月、12-13頁。
18|同上。倉貫は「交感」「響存感覚」を、村岡は「音(心臓音)もやはりものであること」と三人の音の違いを語った。三人の考えがまったく異なっていたというより、話しあいから生まれた考えを分けあったと考えるほうが自然だろう。倉貫の言葉は鈴木亨の著作『響存的世界』にもとづく(倉貫徹へのインタビュー[2018年8月20日、奈良])。
19|今井だけでなく、村岡もこの作品の後に音とかかわる作品を制作していった。例えば、《共同行為》の2ヶ月後、同じく3つのトランペット・スピーカーを使用する《貯蔵─都市空間の中で》が発表された。なお、先の「MUSIC every sound includes music」展を主催したジーベックは音響機器メーカーTOAの関連会社であり、TOAの前身である東亞特殊電機はトランペット・スピーカーの開発で知られていた(TOAウェブサイト「TOA History」を参照)。
20|今井『白からはじまる』263頁。
21|ここでは言及できなかった心臓音シリーズもある。例えば《踊る心》をヴィデオで撮影した《The heart beat》(1975)や、暗くしたKBSレーザリアムセンターに心臓音とメトロノームを流し、メトロノームに合わせて今井が観客席をストロボで撮影する《6/8拍子》(1976)など。
22|今井、前掲書、112頁。