リーフレット 6-1


和田守弘《認識に於ける方法序説 No.l SELF・MUSICAL》書き起こし•1

作成:金子智太郎、和田弥生

「日本美術サウンドアーカイヴ──和田守弘《認識に於ける方法序説 No.Ⅰ SELF・MUSICAL》1973年」リーフレット、2018年、1-2頁。



1
これは言語である。

これは音節である。

これは磁気テープに再生されたものである•2。

これは空間を波動し鼓膜を刺激するものである。

これは私である。

これは私の声である。

これは男の声である。

これは日本語である。

これは言葉である。

これは声である。

2
あ あー い いー う うー え えー お おー•3

か かー き きー く くー け けー こ こー

さ さー し しー す すー せ せー そ そー

た たー ち ちー つ つー て てー と とー

な なー に にー ぬ ぬー ね ねー の のー

は はー ひ ひー ふ ふー へ へー ほ ほー

ま まー み みー む むー め めー も もー

や やー い いー ゆ ゆー え えー よ よー

ら らー り りー る るー れ れー ろ ろー

わ わー い いー う うー え えー お おー

ん んー

が がー ぎ ぎー ぐ ぐー げ げー ご ごー

ざ ざー じ じー ず ずー ぜ ぜー ぞ ぞー

だ だー ぢ ぢー づ づー で でー ど どー

ば ばー び びー ぶ ぶー べ ベー ぼ ぼー

3
デュシャンは言葉としての概念。

芸術を放棄し美術をやろう。

物質を所有するより使用すること。

見ることをやめて見つめるべきだ。

考えることをやめ行為すること。

読むべきではなく聴くべきだ。

絵の具を筆につけるより臭いをかぐこと。

つくることをやめ破壊せよ。

感動をのぞむより退屈すること。

人生を惰性で過ごせ。

美術館に入ったら目を伏せて作品を観ましょう。

写真を撮るより自分でそっくりに描け。

可能性を回避し不可能性を知る。

ヘッドを回せ。

4
我々は事実の像を作る•4。

デュシャンは言葉としての概念。

事実の論理像が思想である。

命題において思想は感性的に知覚可能に表現されうる。

像は現実のモデルである。

命題は現実の像である。命題は我々がそうであると考えている現実のモデルである。

像においては、像の要素が対象に対応する。

命題において思想は、命題記号の要素が思想の対象に対応する、という具合に表現されうる。

感動をのぞむより退屈すること。

像においては、像の要素が対象を代表する。

名辞が命題において対象を代表する。

像は、その要素が相互に特定の仕方で関わり合う点に存する。

像は一つの事実である。

命題記号は、その中でその諸要素、語が、相互に特定の仕方で関わり合う点に存する。命題記号は一つの事実である。

像が現実を、真であれ偽りであれ、それなりの仕方で写像しうるために現実と共有せねばならないのは、写像の形式である。

命題は全ての現実を描出しうる。しかし現実を描出しうるために現実と共有せねばならないもの、論理形式、は描出できない。

写真を撮るより自分でそっくりに描け。

像はその写像の形式を写像できない。像は形式を提示する。

命題は実在の論理形式を示す。命題は論理形式を提示する。

像は諸事態の存立非存立の可能性を描出することによって、現実を写像する。

命題は諸事態の存立非存立を描出する。

考えることをやめ行為すること。

像はそれが描出するものを、その真偽から独立に、写像の形式により、描出する。

命題を理解するとは、それが真なら実情がいかにあるかを知ることである。それ故命題が真か否かを知らずとも命題を理解できる。

像が描出するものが像の意義である。

命題はその意義を示す。命題は真である場合事態がいかにあるかを示す。そして事態がかくあると語る。

読むことをやめ聴くべきだ。

像の真偽は像の意義と現実との一致不一致に存する。

要素命題が真であれば、事態が存立する。真であれば存立しない•5。

人生を惰性で過ごせ。

像が真か偽かを確認するためには、像を現実と比較せねばならない。

現実は命題と比較される。

像のみからではそれが真か偽かを確認できない。というより認識できない•6。

アプリオリに真な像は存在しない。

アプリオリに正しい思想があるとすれば、それはその可能性が真であることを条件づけるものであろう。

可能性を回避し不可能性を知ること。

一体像を否定することは可能なのか。不可能である。そしてこの点に像と命題の相違がある。像は命題としての役割を果たしうる。しかしその折には、今や像に何事かを語らせるものが、像に加わるのである。つまり、私は像が合致していることを否定できるだけであって、像を否定できないのである。

否定的事実の研究の折に、再三再四、否定的事実は命題記号の存在を前提しているかの如く思われる。

芸術を放棄し美術をやろう。

全ての命題は前以って意義をもたねばならない。肯定が命題に意義を与えることはできない、というのも肯定はまさに当の意義を肯定するのだから。そして同じことは否定その他にも妥当する。

ヘッドを回せ。

最も単純な命題、即ち要素命題は事態の存立を主張する。

要素命題は名辞からなる。それは名辞の連関、連鎖である。

要素命題が真であるならば事態が存立する。要素命題が偽りであるならば事態は存立しない。

見ることをやめて見つめること。

もし世界に実体が存在しないのであれば、ある命題が意義を持つか否かは、他の命題が真か否かに依存することとなろう。

物質を所有するより使用すること。

単純記号の可能の要素は、意義の確立の要求である。

対象は単純である。

対象は世界の実体をかたちづくる。それ故合成されえない。

絵の具を筆につけるより臭いをかぐこと。

不動のもの、存続するもの、対象、これらは同一である。

美術館に入ったら目を伏せて作品を観ましょう。

対象は不動のもの、存続するものである。配列は、変動するもの、存続しないものである。

対象の配列が事態を形成する。

私は対象を名ざすことしかできない。記号がそれを代表する。私は対象について語ることしかできず、対象を言いあらわすことはできない。命題はものがいかにあるかを語りうるだけで、ものが何であるかを語ることはできない。

感動を望むより退屈すること。

論理の理解のために我々が必要とする『経験』は、あるものがかくかくの事態にある、という経験ではなく、あるものがあるという経験である。しかしこのことはまさに経験ではない。論理は全ての経験──あるものがかくあるということ、の前にある。論理はいかに、の前にある。しかし、何、の前にあるのではない。

写真を撮るより自分でそっくりに描け。

まず一定の構造が与えられ、ついでに現実にあてはめられる。

考えることをやめ行為すること。

論理学がトートロジーによって示す世界の形式を、数学は等式によって示すのだ。

人生を惰性で過ごせ。

人間は感覚の名前、例えば〈痛み〉という言葉の意味をどのようにして習うのであろうか……。ひとつの可能性はこうである。この言葉は感覚の原始性、自然的な表現と結びつけられ、その代わりに用いられるのだ。子どもが怪我をし泣く。大人がその子に話しかけ、はじめには叫ぶことを教え、のちには文章を教えるのである。

人生を惰性で過ごせ。

可能性を回避し不可能を知ること。

芸術を放棄し美術をやろう。

映像の要素が一定の仕方でたがいに関係することは、事物がそれと同じ仕方でたがいに関係していることを表わす。映像の要素のかような結合を、映像の構造と呼ぶことにし、その構造の可能性を、映像がもつ描写の形式とよぶことにする。

映像はこのようにして実在と結びついている。映像は実在にまで、到達する。

美術館に入ったら目を伏せて作品を観ましょう。

言語における映像について言えることは個々の言語レベルやアスペクトにおいて、異ったアスペクトを持つということで、言語においても具体的な発話においても映像化がなされることである。文の分析に際してヴィトゲンシュタインが確認しているようなタイプの映像化は言語の語彙のレベルにおいてもある。現実の映像化は言語体系全体においても行われうる。異なった言語体系間では現実の映像化の明白さの程度が異なり、インドヨーロッパ諸語では映像構造は非常にはっきりしている•7。


[註]
1|このテキストは和田守弘《認識に於ける方法序説No.lSELF・MUSICAL》(1973)を構成する5本のエンドレステープから聞こえる言葉の書き起こしである。テープの1本には交通騒音のみが収められていた。テープにタイトルやナンバーの表記がないため、テキストの順番とナンバーはあくまで便宜的である。またエンドレステープであるため、テキストの開始部分も便宜的に決めた。テープ1~3ではこのテキストがくりかえし語られる。
2|この一文のあとに「これは音色である」という一文が挿入される箇所がある。
3|このテープはステレオの左右を別々に録音している。左右のテキストはおおよそ同じだが、大きくずれている。また、読みあげる速度や発声のしかたも意識的に変えているように聞こえる。一部に言い間違いと思われる箇所があり、また左チャンネルには「あいうえおかきく」と発音する箇所がある。
4|このテキストは『言語』第1巻・第8号(1972)の「増頁特集・ウィトゲンシュタインーー言語と哲学」において各論文の著者が引用したウィトゲンシュタインの文章からなり(ただし、註9も参照)、そのあいまにテープ3の言葉が挿入される。そこで、ウィトゲンシュタインの再引用の表記は『言語』所収の各論文にならった(ただし、傍点は省略)。一部に言い間違いと思われる箇所があるため、主なものは註に記した。
5|ヴィトゲンシュタインの文章は「偽であれば存立しない」(奥雅博「前期ウィトゲンシュタインの写像理論について」『言語』第1巻・第8号、1972年、574頁)
6|ウィトゲンシュタインの文章は「像のみからではそれが真か偽かを認識できない」(同上)。
7|この箇所のみウィトゲンシュタインではなく、彼の言語映像論についてのカレル・ホラーレックの文章(千野栄一「言語学からみたヴィトゲンシュタイン」『言語』第1巻・第8号、1972年、593頁)。