波はどこから来たのか──渡辺哲也《CLIMAX….NO.1》
金子智太郎
渡辺哲也による《CLIMAX….NO.1》(1973)の記録は、上演中の写真とキャプション、会場に貼られたタイムテーブルと録音原稿、1本のオープンリールテープだけである。このテープには各パフォーマンスの一部をつなげた音が収録されている。聞こえるのは、重なりあう声と波音だけではない。会場の騒音と、テープレコーダーに由来するであろうリズミカルな音も聞こえる。後者は次第に音量を増し、6人目のパフォーマンスでは声と変わらないほど大きくなり、ときに声をかき消す。冒頭の説明はこれらの記録と関係者へのインタビューにもとづく。パフォーマンスの手順や機材はおおよそ推測できる。しかし、2台のレコーダーとミキサーがどう接続されたのか、録音中にパフォーマーと観客がどの音を聞いたのかは可能性がいくつかあり、確定できない*1。
渡辺哲也は1966年、東京造形大学に第1期生として入学し、学生運動に力をつくした。卒業後は松本俊夫のもとで監督助手をつとめる一方で、美共闘REVOLUTIONの第2次美術史評社に参加。実験的な短編映画を制作しながら、オブジェ、テープレコーダー、ヴィデオ、写真、ドローイングによる作品も手がけた。「第9回 パリ青年ビエンナーレ」(1975)ではフィルム部門に出品するとともに、美術史評社が出品したスライドの制作も担当した。しかし、70年代末に美術家としての活動を休止し、以後は自然などをテーマとするテレビ番組や展示映像の制作にたずさわった。
こうした事情のため、渡辺の作品の多くは十分なデータが残っていない。とはいえ《CLIMAX….NO.1》は、音を用いる70年代前半の美術が共有する方法を取りいれながら、独創的な音を生みだした作品であることは疑いえない。本論考はこの作品をめぐる理解を深めるため、限られた資料にもとづいて渡辺の70年代の活動と思考のあとを追いたい。
メディアの「独立した人格」
渡辺は1977年の個展で、それまでのメディアを用いた作品をこうふりかえった。「私たちの視覚とはちがった、機械の眼がとらえる対象。それを反復させることで、メディアのひとり語りとしてきわだたせてきました」。「私たちの身体的知覚と、メディアのそれとの間の差異を増大させ、相対化させようとしたものでした」*2。論文「マニフェスト No.1」(1974)[リーフレット01頁]以降、彼はこのような議論をくり返した。この「メディアのひとり語り」のような発想は、彼の初期作品である「波」をモチーフにした短編映画3部作にすでにあらわれていた。
もっとも詳細が明らかな《WALL SEA》(1972-3)は、1分間の波の映像を壁に投影し、再撮影するという手続きをくり返し、できた映像をつなぎあわせた作品である*3。「波の白い部分と、暗い海の部分がだんだん消えていって、そのコントラストが次第に強くなり」「黒い画面の中央部で、チカチカ輝くだけのものになって」いくという。《EMULSION SEA》(1972)は「フィルム上のイメージをコロイド粒子に還元する」試みとされる*4。おそらく波の映像を現像段階で何度も複製し、劣化させて、つなぎあわせたのだろう。《WAVERING SEA》(1974)には、カメラの回転速度を変えながらスクリーンとヴィデオモニターに映しだされたイメージを再撮影するという説明がある。
渡辺はこの3部作についても77年の個展のときと同じように説明した*5。メディアには私と異なる視覚がある。「私にとって作品をつくることは、この違いをより深めて、メディアに独立した人格をあたえることである」。「独立した人格」という表現は別の文章にも見られる*6。さらに、彼のメディアを使わない作品にも同様の思考がうかがえる。例えば、ドローイング作品《be account II》(1977)については「これまでの仕事を継承しながらも、素材や空間の点では、できるだけ自分にひきよせてみたい」と書いた*7。
《海》(1971)は液体グランドで「Word」と書いた銅板を硝酸液のなかに放置して腐食させる作品である*8。7日目に撮られた写真には、液面に浮くグランドの破片と、縦に裂かれたかのような腐食した銅版が見られる。《凍結》(1973)は脂身のブロックを入れた冷蔵庫である。会期中、冷蔵庫は電気サイクルの違いのために停止し、脂身は腐敗した*9。これらは物質がゆっくりと変化する様子を見せるオブジェである。この変化を物質が環境から受ける影響、いわば物質の感覚によってもたらされたものと考えるならば、これらのオブジェも人間と異なる感覚を表現していると言えよう。
以上の作品に見られる渡辺の発想と、80年代以降に彼が自然、とりわけ植物をテーマとする映像制作にたずさわったことを結びつけるのは難しくない。元をたどれば、彼は中学、高校と植物の生態調査にのめりこんだという。
この言葉は渡辺の美術家としての活動の原点とも読める。作品に作者のメッセージを読みとるのでも、抽象的な理念を見つけるのでもなく、作品を人間とは異なる感覚をもつ存在とみなす。彼はこのような存在のありかたを知的に解明するのではなく、美術家として凝視することを選んだ。
渡辺はこの姿勢を「見ることへの欲望」と呼んだ*11。彼の作品をつらぬくこの欲望は、少年期に育まれ、美術家としての活動を終えてからも生涯続いた、彼の資質だったと言えるだろうか。彼が残した文章にはそれだけとは言い切れない思考が見てとれる。このことは後に論じることにして、その前にこの「見ることへの欲望」の展開をたどっておこう。
分節化される人間
渡辺はメディアに独立した人格を認めるという発想から出発し、人間とメディアという異なる存在の関係を探求していったと考えられる。この展開のひとつとして、例えば、「映画が持つ「時間」の問題、制作にあたっての「集団」の問題」は多くの作品に見られる*12。人間がメディアと関わるとき、時間の流れに分節が生じ、集団に分化が生じる。これらは言語によって表象される。こうしたテーマは、パフォーマンスをまじえた《CLIMAX》シリーズ(1973-4)、《Be-scope》シリーズ(1975-6)、《コーヒーを飲む》(1975)によくあらわれている。
《CLIMAX….NO.2》(1973)は《NO.1》と同じく、パフォーマンスの記録を順に重ねる作品である*13。《NO.2》では5人のパフォーマーがひとりずつ、縦に固定されたトレッシングペーパーに同心円を外側からフリーハンドで描いていく。これはヴィデオで撮影され、モニターに映される。このモニターの映像は別のヴィデオで再撮影され、別の大きなモニター上で他のパフォーマンスの映像と重ねあわされる。パフォーマンスが進むにつれて、大きなモニターにあらわれた円にはさまざまなモアレがあらわれ、最終的に円は黒くつぶれる。詳細は省くが、《CLIMAX….NO.3》(1974)は写真の再撮影を同じように集団でおこなう作品である。《CLIMAX》シリーズは人間がメディアを使うときのさまざまなやりかたではなく、メディアが人間の集団のなかにつくりだした違いを強調する。さらにこの違いはメディアと人間が交わる独特な時間の流れを表現する。
《Be-scope》(1975)もヴィデオを使うパフォーマンスである*14。ヴィデオで会場入口を撮影しながら、パフォーマーがモニターに映るものを言葉で描写する。この作業をもう1台のヴィデオで撮影する。次にその再撮影した映像に映るものをまた言葉で描写する―例えば、「モニターのなかのモニターの女性」というように。さらにこの作業も撮影する。このような手続きがくり返される。《コーヒーを飲む》はフィルムと写真によるインスタレーションを組みあわせ、日常的な動作をメディアによって解体、再構成する作品である*15。男がインスタントコーヒーをつくって飲むという行為が、個々の動作に分節化される。動作の断片は時報の音をともなうフィルムと、会場をとりまく写真として配列しなおされる。
いずれの作品も出発点はやはり、人間とは異なる存在がいかに世界を知覚し、人間と関わるのかを探ろうとする姿勢であろう。この姿勢は、探求の結果を凝視したい、または傾聴したいという欲望に支えられている。こうした姿勢や欲望はたしかに渡辺の生涯を通して見られるため、彼の資質なのかもしれない。しかし、70年代における美術家としての活動に関するかぎり、この姿勢と欲望は渡辺が自らの活動の反省をふまえて生活と表現を結びつけようと模索し、たどりついたひとつの手がかりだったようだ。
学生運動から「見ることへの欲望」へ
渡辺は『美術史評』に掲載した論文「貧困の空間を見つめ上造形大 ’66-’70 旧い同士たちへ」(1973)において、「依然として60年代後半の問題にこだわり続けている」と語る*16。この問題とは彼が中心的に関わった東京造形大学における学生運動のことである。上下にわたるこの論文のなかで、渡辺はただ当時の活動を反省するだけではない。学生運動をめぐる文章に、唐突にポロック以後のアメリカ現代美術論が挿しはさまれる。渡辺は学生運動の軌跡と、絵画を現実の生活とふれさせようとする美術家の試行錯誤を重ねて、自らの表現の手がかりを見つけようとするのだ。
東京造形大学が創立され、渡辺が入学した66年は、戦後日本の「美術・デザイン」教育にとって重要な年だった*17。同年に九州芸術工科大学、愛知県立芸術大学等も創立され、またこの時期にデザイン系各種学校の新設や拡張、カリキュラムの再検討が進んだ。渡辺はこのような状況を「デザイン労働者の位級分化」に応じたものと見ていた。彼によれば、新設校の学生はとくに、進歩的な造形理念を身につけ、社会のなかで職業としての「美術家・デザイナー」となるよう強くうながされた。こうした風潮に対して渡辺は、生活と表現が行為を通して緊密に結びつくような活動を求めていった。生活の経験を作品にこめるという発想すら、社会と美術家の関係に重なる二元論にもとづくものとして拒んだ。
渡辺の学生運動はこのような動機にもとづいていた。しかし、歴史ある美術大学における運動が教授会や自治会と対立したのに対して、造形大においては教授会はむしろ友好的で、制作環境を整えるために自治会を自分たちでつくらなければならなかった。そのために、生活と表現の距離を縮めようとしながら、あるときは生活の側から教育を批判し、あるときは美術家として学内や社会の環境を変えようとするという「奇妙な均衡」に陥ったと渡辺はふりかえる*18。彼はこうした運動の紆余曲折を次のようなアメリカ現代美術論と重ねあわせていく。
ポロックは、絵画を床においてドリッピングを行うことで、非現実的世界の枠というはたらきを絵画から取りはらい、絵画をむきだしの現実とふれさせた。しかし、ドリッピングという均質な行為は多様性をはらんだ生活を表現できなかった。ラウシェンバーグとジョーンズは、絵画に日常的なものや記号を取りいれることにより、ポロックの試みを批判的に受けつごうとする。だが、ラウシェンバーグのきわめて断片的な作品は、美術家が同時代の生活のイメージをつくりだすことの限界を示してしまった。
そこで、渡辺が注目するのは、ジョーンズによる60年代はじめの連作《0から9》の一作である。この作品は0から9までの数字をかたどった布を重ねあわせてつくられる。表面の数字に覆われた奥の数字は、布のふくらみを「おぼろげになぞるようにしてしか、知覚することができない」*19。渡辺によれば、この作品は0から9までの数字を重ねるという指示と、その結果の凹凸以外の何も示さない。抽象的な造形理念も、表現にこめられた現実の生活もみとめられない。だからこそ、この作品は見ることへの欲望を解放するのだと彼は結論する。鑑賞者は自らの見るという営みを通してのみ作品と結びつくことができる。
渡辺はこうして、自らの学生運動の動機と帰結をふりかえり、さらにそれらをアメリカ現代美術論に重ねながら、最後には指示とその結果しかない作品にたどりつく。そして、学生運動では達成できなかった生活と表現の交わりを求めて、指示のかわりにメディアのメカニズムを使用し、波の3部作が生まれたのかもしれない。彼の作品を「コンセプト」や「システム」という言葉で評することもできるだろう*20。しかし、渡辺の文章をたどると、彼は人間がつくりだす抽象的な理念からできるだけ離れようとしたことがわかる。その動機のひとつは人間と異なる存在に対する関心であり、もうひとつは生活と表現を密に結びつけようとする意志である。