リーフレット 2-2


流動するものへの欲望──稲憲一郎《record》

金子智太郎

「日本美術サウンドアーカイヴ──稲憲一郎《record》1973年」リーフレット、2018年、3-4頁。



自宅の環境音をカセットテープに録音して、ギャラリーで再生する。次に再生された音とギャラリーの環境音をともに録音して、再び再生する。これを何度もくり返す。稲憲一郎が、美共闘REVOLUTION委員会により1973年に開催された「〈実務〉と〈実施〉・12人展」に発表した《record》は、以上のごく簡潔な作業からなる。「音が重ねられるたびに野外の音は徐々に掻き消され、最後の頃にはうねりを伴う混沌とした雑音になっていた」•1。

同じ場所で録音と再生をくり返すという作業は当時、稲と同世代の東京の若手作家に共有されていたようだ。川村悦郎の《IMAGE-ON No.3──コンサート・コンサート》(1972)はローリング・ストーンズの音楽を環境音とともに何度も録音、再生する•2。渡辺哲也の《CLIMAX No.1》(1973)では、6人のパフォーマーが「ナ・ミ・ウ・ツ・ナ・ミ」という言葉を一文字ずつずらしながら発声し、録音を重ねる•3。視野を広げれば、録音と再生を反復するという方法がこの時期に世界のさまざまな場所で用いられていたことがわかるかもしれない。アルヴィン・ルシエの《私はある部屋に座っている》(1969)が真っ先に思い浮かぶ。

稲が用いたのは、66年にソニーが発売したカセットレコーダーTC-100シリーズの一機種だったようだ•4。このシリーズは後に欧米各国に輸出され、オープンリールレコーダーをはるかに上回る売上をもたらした。稲の《record》と、世界中で普及したカセットレコーダー、そして《record》に似た方法を用いるさまざまな作品の関係をどう理解したらいいだろうか。こうした問いは日本美術サウンドアーカイヴにとって重要な論点である。川村と渡辺はカセットではなくオープンリールを使用した。本論考はつながりよりも違いに目を向けたい。作品どうしの比較と、稲の70年代の活動をたどることを通じて、稲が音響技術を用いてつくりだしたこの作品の意義と成立の経緯を考察しよう。

録音と再生の反復

稲が《record》において使用したカセットレコーダーは当時、すでに新製品ではなかった。また、録音と再生をくり返すという方法も前例のないものではなかった。刀根康尚が61年に制作した《Number》でもこの方法が用いられた•5。刀根はまず、数を読んで録音したテープを最大の音量で再生する。同時に、この音を別のレコーダーで最小のレベルで録音する。この録音を再び最大の音量で再生し、また録音するという作業をくり返す。すると音の歪みがどんどん増えていき、最後はほとんど歪みだけになる。

刀根の《Number》は60年代後半に刀根自身や中原佑介らが展開した環境芸術論を想起させる。中原によれば、20世紀以降の美術はマスメディアやマスプロダクションを通じてあらゆるものが連続する、都市の環境と向きあうようになっていった•6。世界のなかから切りとられたものを再現するのではなく、鑑賞者に連続的な環境を意識させること、さらに環境全体を変化させることが試みられてきた。すべてが連続する環境のなかで暮らす人間も孤立していられない。中原は、日本でも60年代にさかんになったハプニングもまた、環境と人間の相互作用における人間側に力点をおきながら、鑑賞者に都市の環境を意識させたと論じる。中原の後に刀根も、現代のテクノロジーが生んだ網目状の環境と、光や音響を用いる作品やハプニングとの結びつきを論じた•7。メディア自体が発する雑音に数を読む声が巻きこまれる刀根の《Number》は、彼らのこうした環境芸術論を鮮やかに先取りしていた。

刀根の《Number》と稲の《record》はともに、録音と再生の反復によって音を重ね、最後には雑音に至る。《Number》においては、声が次第に雑音に侵食されていく一方向的な過程に重点がおかれている。刀根はプロセスではなく歪みを見せるのだと語り、最後にレコーダーが振動してはずみだしたことを強調した。これに対して、《record》において重要なのは、次第に環境音が重なりあって層をなし、そしてこの層がだんだん崩れていくという二つの方向をもつ過程であろう。雑音自体よりも、そのなかに音の層を聞き分けること、もしくは聞き分けられないことのほうが重要なのだ。

両作品には、世界の一部を切りとって再現することや、世界から孤立した人間という発想を疑う態度が共通して伺える。しかし、《Number》が表現するメディアと人間の関係は、《record》には当てはまらない。環境芸術をはさんで、録音と再生を反復する方法の意義が変わった。この変化をさらに掘りさげるために、次に稲の《record》以前の作品を見てみよう。

「精神生理学研究所」のなかの転換点

稲の初期の活動では、彼が竹田潔、島村清治とともに組織したメール・アート集団「精神生理学研究所」が比較的よく知られる•8。最大15名の参加者は各自の居場所を「研究所」と称し、同じ日時を記録した作品をいっせいに事務局に送る。事務局はこれをゼロックスにより複写してまとめ、参加者や関係者に送る。このようなやりとりが69年12月から月1回、全7回行われた。参加者には糸井貫二、東野芳名、松澤宥、新潟の美術家集団GUNのメンバーらもいた。中原佑介もこの活動に関心をもち、稲を評論のなかで取りあげた。

稲は精神生理学研究所の前半において、写真、地図、文字情報が組みあわされた《風化》シリーズを発表した。中原が稲のこの作品を参照しながら展開した「ロケイション」をめぐる議論を見ておこう•9。中原は同時代の美術に、閉じた空間ではなく、開かれたロケイションをめぐる思想を見てとった。ロケイションとは、環境と人間の開かれた相互作用と言いかえてもいいだろう。作家たちは文字や地図といったデータと断片的な証拠物件によってロケイションの「アイデンティフィケイション」を行なう。中原によれば、データも証拠物件もロケイションを十分にあらわせないことが重要である。これらは切りとって再現しえないものを逆説的に表現しているからだ。

こうした中原の美術理論と呼応してきた稲の活動は、精神生理学研究所のやりとりのなかで変化を迎えることになる。この変化はすでに指摘されてきた。飯室哲也は、精神生理学研究所の第4回をさかいに、稲の作品から文字や地図といったデータが削られていったと論じる。

第四回から第六回にかけては、写真が中心となり、現象的変化を写真に撮ることにより、眼に見える現れのの〔ママ〕変化と、稲が直接対面していることが浮かぶとともに、時間の経過が写真により分化されたものとして提示されることにより、、〔ママ〕稲と時間との接点も浮かぶ•10。


松永康も精神生理学研究所に限らず、この時期から稲の作品に文字を省いた作品が増えたと指摘する。

上の飯室の指摘は稲の《127時間の風物誌》(1972)にもよく当てはまる•11。稲はまず自宅近くのコンクリートブロックをポラロイド写真で撮影し、ブロックとともに画廊に展示する。さらに会期中ずっと、ブロックがあった場所や画廊に置かれたブロック、写真が貼られた壁などを撮影し、画廊に貼り続ける。この作品においては明らかに、環境のアイデンティフィケイションより、環境が操作と記録を通じて変化していくプロセスが重視された。《record》はこの作品の写真を録音に置きかえたものと言えよう。自宅に滞在中の環境音と、近所を徒歩で移動中の環境音をカセットレコーダーで記録する《staying/walking》(1972)も《127時間の風物誌》と同様の趣旨をもつ。この作品からは、環境と人間の相互作用の変化をとらえるために音響技術を用いるという発想が伺える。

「自らの変容の過程を観視」

稲が70年12月に発表した論文「自らの変容の過程を観視」は、精神生理学研究所後半からの彼の作品の展開を予告していた•12。この論文は『美術手帖』の特集「行為する芸術家たち」に収録され、糸井貫二、風倉匠、GUN、小杉武久、プレイ、松澤宥らが取りあげられた。ヨシダ・ヨシエの論文「単独行為者の超劇場」は60年代からの「パフォーマンス」または「行為」の実践をふりかえり、近年は「共同体への予兆」という動向が見られることを指摘する。

もともと〈美術〉あるいは〈芸術〉とは、それらの観念あるいは肉体の行為の過程、あるいは結果ともみえる空間を、虚構で包みあげることだった、ともいえよう。それを行為自体に還元し、その行為の奥にひろがる未開の部分に執心し、それを慣習と規制にみちた日常生活のなかへ持ちこもうというのだから、日常生活に与える亀裂は、あのオブラートに包まれた〈美術〉や〈芸術〉よりもダイレクトである。われわれが許容しているコミュニケーションの位相はくずれ、よりラディカルな連帯がゆめみられはじめる。すなわち、一見ズタズタに断ち切られ、そっぽを向きあった地層に揺曳する〈コンミューン〉志向である•13。


松澤、GUNの前山忠、プレイが寄稿した文章でも、同年に開催された「ニルヴァーナ」展と共同体の関係が論じられた•14。

これに対して、精神生理学研究所を組織し、「ニルヴァーナ」展にも参加した稲による先の論文は、ヨシダの上の文章や特集全体のトーンとは異なる、いわば冷めた姿勢に貫かれている。稲は「日常性の打破と、それを超えてある世界への願望」から明確に距離をとる•15。そして、日常性に留まり、「自ら置かれて在る場を見つめ」続けることについて語った。

生きて在ることの持続とは、肉体がかかわるところの日常性の営為の内に不可能へと向い、生きて在る者が、この地理的平面の一地点から他の面へと移行することの不可能性である。それゆえ、時空の流れの中で変容する自らの仕様の過程を、執拗に追い観視することではないだろうか•16。


「自ら置かれて在る場を見つめ」ることや、題名の「観視」という言葉は、もの派の姿勢を想起させるかもしれない。しかし、日常のなかで「自らの変容の過程」を見ようとする稲と、出会いの非日常性や瞬間性を強調した李禹煥の間には埋めがたい距離があるだろう•17。

知覚とメディア

稲は近年、作品をつくる上で、同じものを見ていても見方が変われば見えるものが変わることに、初めのころからずっと関心をいだいてきたと語った•18。彼は80年代の論文でもこのことを詳細に説明した•19。「我々はいま、一つの事物に向う時、そこに向うべきルート(方法)の違いが差異を生み出す事を知っている」。この見方の変容は稲にとって「自らの変容」のなかでもとりわけ重要だったはずだ。とはいえ、見方の変容のとらえがたさは誰もが経験しているだろう。久々に口にした食べ物の味がどこか変わったと感じたとき、食べ物自体が変わったのか、自分の味覚が変わったのか、すぐに判断するのは難しい。

稲は80年代の別の文章で、6才の自分の息子がカメラのブレやボケに大きな関心を示したというエピソードを、人間の知覚がかかえもつ、普段は意識されない差異をめぐる議論と結びつけた•20。停止したものの助けなくして、変化するものをとらえることは難しい。飯室の言葉を借りれば、知覚を分化されたものとして提示する写真は、知覚に生じた差異をとらえる手がかりをもたらす。写真や録音を用いた稲の作品は、知覚に一時的な分化をつくりだすことで、とらえがたい変容を表現しようとする。

74年、稲は3台のカセットレコーダーを用いる《記録-測定》を発表した•21。彼はまず自宅で数をかぞえる声と、環境音を別々に録音する。数をかぞえるときには、同時に紙にも数字を記述していく。そして彼は画廊でこれらの録音を再生し、さらに再生される声にあわせて数をかぞえながら数字を紙に記述する。さらに、3台目のレコーダーによってこれらすべてを録音する。

刀根の《Number》における数字は、声にリズムをもたせ、レコーダーが生みだす歪みを強調する役割を果たしたのではないか。さらに、この作品を都市環境のメタファーとしてとらえるならば、数をかぞえることは都市生活のメタファーだろう。一方、稲の《記録-測定》シリーズの数字は、写真や録音と同じように行為と知覚に分化をつくりだし、自らの変容を浮かびあがらせる働きをもっている。メタファーとみなすなら、数をかぞえることは日常生活における知覚のメタファーだろう。

流動するものへの欲望

中原佑介は先の「ロケイション」をめぐる議論のなかで次のように述べた。

いくぶんロマンチックないいかたをすれば、このロケイションという思想は、生きることは旅をすることだというような意識に根ざしているように思われる。[中略]旅をいいかえれば、それはわれわれの生における流離感とでもいうべきものだ。その流離感に歯止めをすべく、ロケイションということにこだわらざるを得ないのである•22。


先に、稲の初期の活動はこうしたロケイションの思想の近くから出発して、自己の変容へと関心を移していったのではないかと述べた。このことと中原の上の推察をふまえると、稲の70年代の作品の背後にあるのは、旅の意識、流離感ではなく、自分がいつの間にか変化してしまうという意識、離人感であると言えよう。

稲は先に参照した、見方が変化していくことをめぐる論文を次の文章で結んだ。

我々は一面で、否応もなく、安定と秩序を求めて行こうとする。それが時として、揺れ動く舟の中のような、どんなに不安定な所でさえも、それを安定として、中心を形成していく。しかし同時に我々は、流動するもの、揺れ動くものへの欲望もまた、捨てきる事は出来ないだろう。簡単に言ってしまえば長く留まって居れば、飽きるのだ。そして我々のそうした欲望こそが、差異の無限の連鎖の中で意味を生成し続けるのだろう•23。


飽きることは、気づかないうちに起こる自己の変化の典型である。稲の70年代の作品は、飽きることを欲望として肯定しながら、それでも興味を一時的に引きのばすための試行を重ねていたと言えないだろうか。《record》における一時的で不安定な音の層も、そうした欲望の動きの表現として解釈してみたい。


[註]
1|『ニュー・ヴィジョン・サイタマ──黒田克正、稲憲一郎、小山穂太郎』(以下『ニュー・ヴィジョン・サイタマ』)展覧会カタログ、埼玉県立近代美術館、1998年、82-83頁。このカタログは稲の60年代末から80年代末までの諸作品を概観している。
2|川村悦郎「培養学入門──《IMAGE-ON》PART・1からの報告」『美術情宣』創刊号、1973年、10-13頁。
3|この作品の詳細は主に、故渡辺氏の夫人で同作品に参加もした美術家、伊藤純子氏へのインタビュー(2017年3月13日・神奈川、8月10日・東京)と、伊藤氏が所有する資料、記録テープにもとづく。
4|ソニー広報センター『ソニー自叙伝』ワック株式会社、1998年、272頁。
5|刀根康尚、粉川哲夫「パラメディア・アートとは何か──テクノロジーを超える創造」『すばる』第13巻第9号、1991年、191頁。刀根康尚、桜本有三「インタビュー」『yasunao tone』藤井明子編、愛知芸術文化センター企画事業実行委員会、芦屋市立美術博物館、2001年、6頁。刀根の60年代の活動については、馬場省吾「刀根康尚のデジタル・サウンド作品と、ルーツとしての1960年代の作品と思考」『常盤台人間文化論叢』第3巻第1号、2017年、47-68頁。
6|中原佑介「芸術の環境化と環境の芸術化」『美術手帖』第283号、1967年6月、131-141頁。
7|刀根康尚「芸術の環境化とは何か──アンディ・ワーホールが開示した領域」『デザイン批評』第8号、1969年1月、31頁。
8|竹田潔、島村清治、稲憲一郎『精神生理学研究所』東京精神生理学研究所、1970年。『ニュー・ヴィジョン・サイタマ』76-79頁。
9|中原佑介「人間と物質の間 第1回 ロケイションの思想」『三彩』第262号、1970年9月、62-65頁。
10|飯室哲也「私信 精神生理学研究所」『精神生理学研究所 1969年~1970年』展覧会カタログ、1999年。
11| 『ニュー・ヴィジョン・サイタマ』80-81頁。
12|稲憲一郎「自らの変容の過程を観視」『美術手帖』第335号、1970年12月、84-85頁。
13|ヨシダ・ヨシエ「単独行為者の超劇場」『美術手帖』第335号、1970年12月、58-59頁。
14|「ニルヴァーナ」展については、『ニルヴァーナからカタストロフィーへ──松澤宥と虚空間のコミューン』展覧会カタログ、オオタファインアーツ、2017年、176-221頁。
15|稲、前掲論文、84-85頁。
16|同上、85頁。
17|「『出会い』とは、人が『人間』を越えて、世界自身のあるがままの鮮かさに触れ合い魅せられる自覚(悟り)の瞬間であり場所との一体感であるものだからこそである」(李禹煥「出会いを求めて」『美術手帖』第324号、1970年2月、17頁)。
18|稲憲一郎、高橋圀夫、北村周一、さとう陽子、石村実、橘田尚之『dialogue 絵画について』t & nky studio、2017年、13頁。
19|稲憲一郎「伏流の岸辺」『溶蝕/欲望の海をわたる絵画』GROUP 1998、1989年、4-10頁。
20|稲憲一郎「乾いた入江」『溶蝕/欲望の海をわたる絵画』GROUP 1998、1989年、48頁。
21| 『ニュー・ヴィジョン・サイタマ』86-87頁。
22|中原、前掲論文、65頁。
23|稲「伏流の岸辺」10頁。