反復と不在──上田佳世子、渡辺恵利世《トートロジー》
金子智太郎
「日本美術サウンドアーカイヴ──上田佳世子、渡辺恵利世《トートロジー》」リーフレット、2022年、3-4頁。
上田佳世子と渡辺恵利世はテーブルに向き合って座り、目隠しをつけた。それぞれがテーブルに置かれた画用紙の束から一枚を取り、ゆっくりとペンで「1」と書き、足元に落とした。彼女たちは互いが立てる音を聞き、行為をできるだけ同期させようとしながら、再び画用紙を取って「2」と書き、落とした。床、テーブル、椅子はすべてビニールシートで覆われていた。同期の試みは一人分60枚の画用紙がすべて床に散るまで続いた。《時を織る》と題されたこのパフォーマンスは、上田と渡辺が1973年に発表した《トートロジー》シリーズの最後の作品だった。彼女たちは一連の試みを会期中、何度もくり返した。
《トートロジー》は展覧会シリーズであり、作品シリーズであり、全体としてひとつの作品でもある。上田と渡辺は73年1月に、彼女たちが共同生活していた部屋でこのシリーズの最初の展覧会を開催し、点滴用ガラスボトルを使ったインスタレーション《予定調和的半過去》を展示した。翌2月、京都市立美術館で開催された「京都アンデパンダン」展に、2枚のキャンバス生地からなる《アリアドネの糸》を出品•1。以後、彼女たちは8月まで一月に一回ずつ展覧会を開催し、ひとつの作品を展示した。堀えりぜ(渡辺恵利世)によれば、このシリーズは12月まで続けられる予定だった•2。
《トートロジー》は当時かなりユニークな作品だったに違いない──若手女性美術家二人のユニットによる、自宅や誰も知らない画廊で開催された、8ヶ月間続いたシリーズという点だけでも。しかし、この作品はまた、上田と渡辺の師である高松次郎から受けた影響、「美術家共闘会議(美共闘)」のメンバーら、同世代の美術家と共通する姿勢、同時代に出版された文学の参照など、70年代前半の日本美術をふりかえるために有意義な論点がいくつもある。本論考はまず、上田と渡辺が本作品を始めた経緯と、8回の展覧会の流れをたどろう。次に、自宅という場所に注目して、本作品の同時代性を考える。最後に、《トートロジー》後半の画廊での展開について検討しながら、この作品に一貫する発想をあらためて問いたい。
反復はいかに始まり、続いたのか
48年生まれの上田と渡辺はともに多摩美術大学絵画科で学んだ。しかし、上田は早生まれだったために学年が異なり、在学中は面識がなかった。当時の絵画科の教員には杉全直、斉藤義重、高松次郎らがいた。学生運動が日本中に広がると多摩美術大学でも69年に「美共闘」が結成され、校舎がバリケードによって封鎖された。だが、上田と渡辺がこの運動に直接参加したことはなかった。
70年10月、高松は自宅アトリエで田島廉仁、川井調吉とともに「アトリエ開放展」を開催し、翌年5月から同じ場所で私設の美術学校「塾」を開講した•3。上田と渡辺は受講生となり、ここで関係を深めた。彼女たちは72年に「塾」を辞め、同年の終わりに同じく多摩美術大学出身の美術家、勝又正子とともに、子供のための絵画教室「アトリエ3」を設立した。彼女たちは東京都大田区南雪谷のマンションの一室を住居兼教室として用いて共同生活を営んだ。翌年1月、上田と渡辺はこの2LDKの部屋で《トートロジー》シリーズを始めた。案内状には、時間が経つと見えなくなる、刺繍の下絵用インクが使われたという。
《トートロジー》は「同語反復」を意味する。行為の反復は当時、多くの若手美術家に共有された手法だった。後に詳しく見るが、このシリーズに反復はさまざまなかたちであらわれた。しかし、ここではあえて、自宅で発表された主に前半の作品と、画廊で発表された主に後半の作品を分けて見ていこう。この分けかたは便宜的に過ぎないが、自宅と画廊という場所が個々の作品にとって重要であることは間違いない。
上田と渡辺は1月、3月、5月に自宅で展覧会を開いた。1月の《予定調和的半過去》は点滴用装置をリビングの天井から吊るし、水を床に垂らした。一滴ずつ落ちた水は、床に敷いたキャンパス生地に染みをつくった。3月の《Sand Box》は自宅の各部屋に、天井と床に挟まるように太い角材を立てた。角材は鉄筋コンクリートの部屋に生えた柱のようだった。5月の《水晶の波は》は、網戸に張るために切られる前の、帯状の網が使われた。上田と渡辺は天井に網の帯をピンで等間隔に固定し、ピンのあいだの網を床の近くまで垂らした。部屋中を満たした網のひだは、蛍光灯に照らされて緑色のグラデーションをつくった。この作品のタイトルは、クォーツ時計のような規則正しい振動を含意した•4。どの展覧会も一週間ほどであり、彼女たちは会期中ずっとこれらの作品とともに暮らした。
4月に《手摺りにまたがって降りないで》が発表されたのは渋谷の道玄坂画廊だった。パルコの開店を控え、後にセゾングループによる文化戦略の中心となった渋谷にあったこの古風な画廊は、現代美術家の誰もが見向きもしなかった場所だった。上田と渡辺はただその入口の正面に姿見を置いた。観客は画廊に続く階段を昇り、入口のドアを開けると、そこに映る自分と対面した。6月の《真空の》、7月の《真水》、8月の《時を織る》の会場は、青山学院大学の近くにあった青光画廊であり、ここも現代美術とは縁遠い場所だった。《真空の》は画廊を衝立で入口側と奥側に分割し、奥側に椅子とスピーカーを置いた。そして、椅子の上と床に数冊の本を積んだ。入口側に置かれたテープレコーダーはスピーカーから上田と渡辺による本の朗読を再生した。《真水》も衝立で画廊を分割したが、《真空の》と違って衝立のあいだに隙間を空けた。入口側にはキャンバス生地で覆ったソファーの上に、水の入ったガラスのコップを置いた。キャンパス生地は《予定調和的半過去》で使ったものだった。奥側にはテーブルと椅子を置き、観客が自由に座って雑談できた。
《トートロジー》には同じ素材がくり返し使われた。《予定調和的半過去》と《真水》のキャンバス生地だけではない。青光画廊で使われたテーブルと椅子は絵画教室で使われたものだった。このことはシリーズ全体を一続きの物語として読みとるよう、観客に促す。唯一、多くの観客の目にふれる機会があった《アリアドネの糸》は、この物語の一篇であると同時に、単独でも読める短篇のようだ。この作品に使われたおよそ縦2メートル、横1.5メートルの2枚のキャンバス生地は、どちらも中央に長方形の穴が空けられた。穴といっても1枚はその部分の横糸がすべて抜かれて縦糸だけが残され、もう1枚は逆に横糸だけが残された。2枚を重ねてピンで壁にかけると、穴の向こうに縦糸と横糸が格子状の影を落とした。その影はかつて布地だったとは思えないほど不均質によじれ、たわんだ•5。
《トートロジー》以後の上田と渡辺の活動について、ここでは概略を追うに留める。上田は少なくとも76年までは写真、映像、文字を使用した作品を、80年代はアクリル絵具による絵画を発表した•6。90年代以降、子供の美術教育に関する多くの文章を執筆したが、2011年に亡くなった•7。渡辺は74年に写真を用いた個展を開催し、75年から77年までは堀浩哉の作品にコラボレーター兼パフォーマーとして参加した。98年に畠中実、堀浩哉と「ユニット00」を結成して活動を再開。現在も2011年から始めた堀浩哉とのユニット「堀浩哉+堀えりぜ」で活動を続けている。
制度批判としての自宅展
《トートロジー》シリーズや高松の「アトリエ開放展」のように、70年代前半にはいくつかの注目すべき、美術家の自宅で開催された展覧会があった。自宅を作品の発表の場としただけでなく、作品の一部にしたことは《トートロジー》の同時代性と特異性を理解するための手がかりになるだろう。まず同時代を概観し、次に《トートロジー》の各作品を考察しよう。
第二次世界大戦後の人口増加と都市化によって住宅不足は60年代に日本の社会問題となった。63年に「新住宅市街地開発法」、66年に「住宅建設計画法」が制定され、1971年には日本最大規模の「ニュータウン」だった「多摩ニュータウン」が誕生した。1970年の日本万国博覧会につくられた「もっとも小さな」パビリオン「ホーム・マイ・ホーム」はこうした住宅事情を背景とした•8。プロデュースは東野芳明、コーディネーターは吉村益信。大西清自、小林はくどう、浜田郷、樋口正一郎、永松勇三らが参加した。団地の画一的な空間を模したパビリオンは「表面上は平和なマイ・ホームの裏側の姿を、あますことなくあばきたてた」という。
このころより自宅を表現の場とする動向があらわれた。70年2月、名古屋の美術家集団「ぷろだくしょん我S」は自宅を大きな風船でいっぱいにする《Conventionからの出発》を開催した。高松らが「アトリエ開放展」を開催したのと同月、彦坂尚嘉は自室の床をラテックスで覆った《FLOOR EVENT》を発表した。12月には榎倉康二、高山登、藤井博、羽生真が高山の下宿先の庭で「SPACE TOTSUKA ‘70」展を開催した。ザ・プレイは72年の《IE: THE PLAY HAVE A HOUSE》において、水上に家をつくり、そこで暮らしながら川下りをした。73年には島州一が住む団地など、作家の現実の生活のなかで表現をするグループ展「点展」が開催された•9。第1回は島と「SPACE TOTSUKA ‘70」の美術家に加えて長重之、内藤晴久、八田淳、原口典之、藤原和通が参加した。
高松は71年に再制作された彦坂の《FLOOR EVENT》についてこう評した•10。この作品が重要なのは、美術館や画廊以外の場所で展示したからではない。彦坂は、学生運動のさい「日常」を破壊するためにバリケードを築いたにもかかわらず、そのなかに非日常ではなく「日常」が構成されたと感じたという。自宅を舞台とする彦坂の作品は「日常性」のありかたを探求するものだろう──と。高松がここで語った「日常」を、彦坂らの言葉を使って「制度」と言いかえることができそうだ。美術をめぐる制度とは美術に関わる人やモノのありかた、規則や慣習の全体を意味する。高松や彦坂は文化的再生産の場である自宅を、オルタナティブな展示空間ではなく、美術をめぐる制度を根本から問うための場所としてとらえた。
このような、制度批判という目線から日常をとらえるという姿勢は当時、学生運動を経験した世代の若手美術家に広く共有された。上田と渡辺は運動に直接参加しなかったが、彼女たちが《トートロジー》における自宅をたんなる画廊の代わりではなく、自分たちの実践を支え、かつ拘束するさまざまな制度のかたまりとして意識していたことは明らかだ。《予定調和的半過去》の「半過去」には「過去における習慣」という意味がある。《Sand Box》の角材は天井を支えると同時に、住人の普段の活動を妨げることで、意識されない生活の習慣をあらわにした。彼女たちにとってこの一室は共有の住居であり、アトリエ、職場、展示空間だった。彦坂のように部屋を閉ざしてしまうのではなく、上田と渡辺は自分たちの作品とともに、作品のなかで暮らした。
自宅で発表された3作品を通して見ると、治癒というテーマが連想される──点滴、添え木、包帯。こう見立てると、彼女たちが女性として感じてきた家に対する思いや、これからの生活に対する不安と期待を読みとれるかもしれない。成長の歪みによって傷ついた社会に対する目線も。重要なのは、あらゆる制度がそうであるように、どの作品も両義性をもっていることだろう。点滴ボトルから滴る液体は薬にも見えるし、雨漏りにも見える。美しく波打つ網の帯は部屋の視界を奪ってしまう。上田と渡辺はこうした両義性のなかで、制度のなかで、過去における習慣を抱えたまま表現することに意識的だった。
中断と不在
4月に発表された《手摺りにまたがって降りないで》のタイトルは、古めかしい画廊の階段と結びつくだけでなく、制度に対する上田と渡辺の関心のあらわれともとれる。制度という視点から見ると《トートロジー》の画廊における展開は、画廊空間自体だけでなく、東京という都市における、また日本美術における、画廊のありかたを問うものだったのだろう。画廊を探すことが作品の一部だった。見つかった画廊は、彼女たちにとって東京の美術シーンにおける盲点のような、意味を失った場所だった。道玄坂画廊を訪れた観客が入口のドアを開けたときに意識させられたのは、自分がそうした場所にいることだった。
《トートロジー》後半の作品は、シリーズのタイトルが示唆するような、くり返しに満ちていた。《真空の》の着想には、隣人がたてる音が聞こえるという、自宅での経験があった•11。画廊に私物の椅子、本、テーブルが持ちこまれ、内部に衝立で部屋がつくられた。不在の人物の朗読を重ね合わせることは、《アリアドネの糸》の縦糸のない布と横糸のない布を重ねる表現を思わせる。シリーズのなかでもひときわ謎めいた《真水》はほとんどが反復によって構成された。観客は画廊に入るとまず《予定調和的半過去》を思わせるキャンバス生地と水に出会った。そして、隙間の空いた衝立の向こうから、上田と渡辺の私物のテーブルと椅子に座った別の観客の、世間話をする声が聞こえた。《真空の》と《真水》の衝立は入口に裏側を向けていた。観客はこれらの展覧会をまず裏側から、制度や日常の側から鑑賞した。
《トートロジー》は作品を重ねるごとに、場所を変えても、過去の作品の要素を蓄積していった。彼女たちは、表現を条件づけるさまざまな制度を意識したように、過去の共同作業を新たな制作の条件としていったように見える。そして、視覚の欠如と一定の規則にしたがう行為を通じて、互いの存在を確認しあうパフォーマンス《時を織る》を最後に、過去の蓄積を保ちきれなくなったかのように、シリーズは計画の途中で動きを止めた。
上田と渡辺が《トートロジー》を通じて制度や共同作業とどう向き合ったのかを考えようとするとき、思想や文学の参照は手がかりのひとつになるだろう。例えば、堀浩哉や和田守弘がル・クレジオを参照したように、同時代に翻訳されたヌーヴォー・ロマン、フランス文学の影響は当時の若手美術家に共有された。《トートロジー》はその参照の豊かさという点で特筆すべきである。なかでも、シモーヌ・ヴェイユの『重力と恩寵』における「真空」という観念の参照は、このシリーズが不在や欠如というテーマを一貫して扱っただけに、興味深い。ヴェイユによれば、人間の魂はたえず「重力」の作用を被っており、「恩寵」がもたらされるには自分のなかに「真空」がなければならない•12。《トートロジー》における不在や欠如がヴェイユの「真空」という観念と結びつくなら、「重力」に対応するのは表現をめぐる制度や蓄積される過去だろうか。
《トートロジー》を考えるためのもうひとつの手がかりは、やはり上田と渡辺が師事した高松次郎の影響である。彼女たちが学んだ「塾」の71年のカリキュラムは、『老子』や中原佑介の著作の読書に加えて、ル・クレジオの読書や、「不在性について」をめぐるパネル・ディスカッションが含まれた•13。高松の計画には「レオナルド・ダ・ヴィンチの手記」の読書もあり、また彼のノートには「日常」や「制度」をめぐる思考が記された。たしかに、ヴェイユの思想や高松の教育が《トートロジー》といかに関わるのかを言いあらわすのに「影響」という言葉は粗雑すぎる。上田と渡辺によるヴェイユと高松に対する解釈も重要である。より的確な表現を見つけるにはいっそう慎重な検討が必要だろう。
《トートロジー》は展覧会シリーズであり、作品シリーズであり、全体としてひとつの作品でもある。上田と渡辺は73年1月に、彼女たちが共同生活していた部屋でこのシリーズの最初の展覧会を開催し、点滴用ガラスボトルを使ったインスタレーション《予定調和的半過去》を展示した。翌2月、京都市立美術館で開催された「京都アンデパンダン」展に、2枚のキャンバス生地からなる《アリアドネの糸》を出品•1。以後、彼女たちは8月まで一月に一回ずつ展覧会を開催し、ひとつの作品を展示した。堀えりぜ(渡辺恵利世)によれば、このシリーズは12月まで続けられる予定だった•2。
《トートロジー》は当時かなりユニークな作品だったに違いない──若手女性美術家二人のユニットによる、自宅や誰も知らない画廊で開催された、8ヶ月間続いたシリーズという点だけでも。しかし、この作品はまた、上田と渡辺の師である高松次郎から受けた影響、「美術家共闘会議(美共闘)」のメンバーら、同世代の美術家と共通する姿勢、同時代に出版された文学の参照など、70年代前半の日本美術をふりかえるために有意義な論点がいくつもある。本論考はまず、上田と渡辺が本作品を始めた経緯と、8回の展覧会の流れをたどろう。次に、自宅という場所に注目して、本作品の同時代性を考える。最後に、《トートロジー》後半の画廊での展開について検討しながら、この作品に一貫する発想をあらためて問いたい。
反復はいかに始まり、続いたのか
48年生まれの上田と渡辺はともに多摩美術大学絵画科で学んだ。しかし、上田は早生まれだったために学年が異なり、在学中は面識がなかった。当時の絵画科の教員には杉全直、斉藤義重、高松次郎らがいた。学生運動が日本中に広がると多摩美術大学でも69年に「美共闘」が結成され、校舎がバリケードによって封鎖された。だが、上田と渡辺がこの運動に直接参加したことはなかった。
70年10月、高松は自宅アトリエで田島廉仁、川井調吉とともに「アトリエ開放展」を開催し、翌年5月から同じ場所で私設の美術学校「塾」を開講した•3。上田と渡辺は受講生となり、ここで関係を深めた。彼女たちは72年に「塾」を辞め、同年の終わりに同じく多摩美術大学出身の美術家、勝又正子とともに、子供のための絵画教室「アトリエ3」を設立した。彼女たちは東京都大田区南雪谷のマンションの一室を住居兼教室として用いて共同生活を営んだ。翌年1月、上田と渡辺はこの2LDKの部屋で《トートロジー》シリーズを始めた。案内状には、時間が経つと見えなくなる、刺繍の下絵用インクが使われたという。
《トートロジー》は「同語反復」を意味する。行為の反復は当時、多くの若手美術家に共有された手法だった。後に詳しく見るが、このシリーズに反復はさまざまなかたちであらわれた。しかし、ここではあえて、自宅で発表された主に前半の作品と、画廊で発表された主に後半の作品を分けて見ていこう。この分けかたは便宜的に過ぎないが、自宅と画廊という場所が個々の作品にとって重要であることは間違いない。
上田と渡辺は1月、3月、5月に自宅で展覧会を開いた。1月の《予定調和的半過去》は点滴用装置をリビングの天井から吊るし、水を床に垂らした。一滴ずつ落ちた水は、床に敷いたキャンパス生地に染みをつくった。3月の《Sand Box》は自宅の各部屋に、天井と床に挟まるように太い角材を立てた。角材は鉄筋コンクリートの部屋に生えた柱のようだった。5月の《水晶の波は》は、網戸に張るために切られる前の、帯状の網が使われた。上田と渡辺は天井に網の帯をピンで等間隔に固定し、ピンのあいだの網を床の近くまで垂らした。部屋中を満たした網のひだは、蛍光灯に照らされて緑色のグラデーションをつくった。この作品のタイトルは、クォーツ時計のような規則正しい振動を含意した•4。どの展覧会も一週間ほどであり、彼女たちは会期中ずっとこれらの作品とともに暮らした。
4月に《手摺りにまたがって降りないで》が発表されたのは渋谷の道玄坂画廊だった。パルコの開店を控え、後にセゾングループによる文化戦略の中心となった渋谷にあったこの古風な画廊は、現代美術家の誰もが見向きもしなかった場所だった。上田と渡辺はただその入口の正面に姿見を置いた。観客は画廊に続く階段を昇り、入口のドアを開けると、そこに映る自分と対面した。6月の《真空の》、7月の《真水》、8月の《時を織る》の会場は、青山学院大学の近くにあった青光画廊であり、ここも現代美術とは縁遠い場所だった。《真空の》は画廊を衝立で入口側と奥側に分割し、奥側に椅子とスピーカーを置いた。そして、椅子の上と床に数冊の本を積んだ。入口側に置かれたテープレコーダーはスピーカーから上田と渡辺による本の朗読を再生した。《真水》も衝立で画廊を分割したが、《真空の》と違って衝立のあいだに隙間を空けた。入口側にはキャンバス生地で覆ったソファーの上に、水の入ったガラスのコップを置いた。キャンパス生地は《予定調和的半過去》で使ったものだった。奥側にはテーブルと椅子を置き、観客が自由に座って雑談できた。
《トートロジー》には同じ素材がくり返し使われた。《予定調和的半過去》と《真水》のキャンバス生地だけではない。青光画廊で使われたテーブルと椅子は絵画教室で使われたものだった。このことはシリーズ全体を一続きの物語として読みとるよう、観客に促す。唯一、多くの観客の目にふれる機会があった《アリアドネの糸》は、この物語の一篇であると同時に、単独でも読める短篇のようだ。この作品に使われたおよそ縦2メートル、横1.5メートルの2枚のキャンバス生地は、どちらも中央に長方形の穴が空けられた。穴といっても1枚はその部分の横糸がすべて抜かれて縦糸だけが残され、もう1枚は逆に横糸だけが残された。2枚を重ねてピンで壁にかけると、穴の向こうに縦糸と横糸が格子状の影を落とした。その影はかつて布地だったとは思えないほど不均質によじれ、たわんだ•5。
《トートロジー》以後の上田と渡辺の活動について、ここでは概略を追うに留める。上田は少なくとも76年までは写真、映像、文字を使用した作品を、80年代はアクリル絵具による絵画を発表した•6。90年代以降、子供の美術教育に関する多くの文章を執筆したが、2011年に亡くなった•7。渡辺は74年に写真を用いた個展を開催し、75年から77年までは堀浩哉の作品にコラボレーター兼パフォーマーとして参加した。98年に畠中実、堀浩哉と「ユニット00」を結成して活動を再開。現在も2011年から始めた堀浩哉とのユニット「堀浩哉+堀えりぜ」で活動を続けている。
制度批判としての自宅展
《トートロジー》シリーズや高松の「アトリエ開放展」のように、70年代前半にはいくつかの注目すべき、美術家の自宅で開催された展覧会があった。自宅を作品の発表の場としただけでなく、作品の一部にしたことは《トートロジー》の同時代性と特異性を理解するための手がかりになるだろう。まず同時代を概観し、次に《トートロジー》の各作品を考察しよう。
第二次世界大戦後の人口増加と都市化によって住宅不足は60年代に日本の社会問題となった。63年に「新住宅市街地開発法」、66年に「住宅建設計画法」が制定され、1971年には日本最大規模の「ニュータウン」だった「多摩ニュータウン」が誕生した。1970年の日本万国博覧会につくられた「もっとも小さな」パビリオン「ホーム・マイ・ホーム」はこうした住宅事情を背景とした•8。プロデュースは東野芳明、コーディネーターは吉村益信。大西清自、小林はくどう、浜田郷、樋口正一郎、永松勇三らが参加した。団地の画一的な空間を模したパビリオンは「表面上は平和なマイ・ホームの裏側の姿を、あますことなくあばきたてた」という。
このころより自宅を表現の場とする動向があらわれた。70年2月、名古屋の美術家集団「ぷろだくしょん我S」は自宅を大きな風船でいっぱいにする《Conventionからの出発》を開催した。高松らが「アトリエ開放展」を開催したのと同月、彦坂尚嘉は自室の床をラテックスで覆った《FLOOR EVENT》を発表した。12月には榎倉康二、高山登、藤井博、羽生真が高山の下宿先の庭で「SPACE TOTSUKA ‘70」展を開催した。ザ・プレイは72年の《IE: THE PLAY HAVE A HOUSE》において、水上に家をつくり、そこで暮らしながら川下りをした。73年には島州一が住む団地など、作家の現実の生活のなかで表現をするグループ展「点展」が開催された•9。第1回は島と「SPACE TOTSUKA ‘70」の美術家に加えて長重之、内藤晴久、八田淳、原口典之、藤原和通が参加した。
高松は71年に再制作された彦坂の《FLOOR EVENT》についてこう評した•10。この作品が重要なのは、美術館や画廊以外の場所で展示したからではない。彦坂は、学生運動のさい「日常」を破壊するためにバリケードを築いたにもかかわらず、そのなかに非日常ではなく「日常」が構成されたと感じたという。自宅を舞台とする彦坂の作品は「日常性」のありかたを探求するものだろう──と。高松がここで語った「日常」を、彦坂らの言葉を使って「制度」と言いかえることができそうだ。美術をめぐる制度とは美術に関わる人やモノのありかた、規則や慣習の全体を意味する。高松や彦坂は文化的再生産の場である自宅を、オルタナティブな展示空間ではなく、美術をめぐる制度を根本から問うための場所としてとらえた。
このような、制度批判という目線から日常をとらえるという姿勢は当時、学生運動を経験した世代の若手美術家に広く共有された。上田と渡辺は運動に直接参加しなかったが、彼女たちが《トートロジー》における自宅をたんなる画廊の代わりではなく、自分たちの実践を支え、かつ拘束するさまざまな制度のかたまりとして意識していたことは明らかだ。《予定調和的半過去》の「半過去」には「過去における習慣」という意味がある。《Sand Box》の角材は天井を支えると同時に、住人の普段の活動を妨げることで、意識されない生活の習慣をあらわにした。彼女たちにとってこの一室は共有の住居であり、アトリエ、職場、展示空間だった。彦坂のように部屋を閉ざしてしまうのではなく、上田と渡辺は自分たちの作品とともに、作品のなかで暮らした。
自宅で発表された3作品を通して見ると、治癒というテーマが連想される──点滴、添え木、包帯。こう見立てると、彼女たちが女性として感じてきた家に対する思いや、これからの生活に対する不安と期待を読みとれるかもしれない。成長の歪みによって傷ついた社会に対する目線も。重要なのは、あらゆる制度がそうであるように、どの作品も両義性をもっていることだろう。点滴ボトルから滴る液体は薬にも見えるし、雨漏りにも見える。美しく波打つ網の帯は部屋の視界を奪ってしまう。上田と渡辺はこうした両義性のなかで、制度のなかで、過去における習慣を抱えたまま表現することに意識的だった。
中断と不在
4月に発表された《手摺りにまたがって降りないで》のタイトルは、古めかしい画廊の階段と結びつくだけでなく、制度に対する上田と渡辺の関心のあらわれともとれる。制度という視点から見ると《トートロジー》の画廊における展開は、画廊空間自体だけでなく、東京という都市における、また日本美術における、画廊のありかたを問うものだったのだろう。画廊を探すことが作品の一部だった。見つかった画廊は、彼女たちにとって東京の美術シーンにおける盲点のような、意味を失った場所だった。道玄坂画廊を訪れた観客が入口のドアを開けたときに意識させられたのは、自分がそうした場所にいることだった。
《トートロジー》後半の作品は、シリーズのタイトルが示唆するような、くり返しに満ちていた。《真空の》の着想には、隣人がたてる音が聞こえるという、自宅での経験があった•11。画廊に私物の椅子、本、テーブルが持ちこまれ、内部に衝立で部屋がつくられた。不在の人物の朗読を重ね合わせることは、《アリアドネの糸》の縦糸のない布と横糸のない布を重ねる表現を思わせる。シリーズのなかでもひときわ謎めいた《真水》はほとんどが反復によって構成された。観客は画廊に入るとまず《予定調和的半過去》を思わせるキャンバス生地と水に出会った。そして、隙間の空いた衝立の向こうから、上田と渡辺の私物のテーブルと椅子に座った別の観客の、世間話をする声が聞こえた。《真空の》と《真水》の衝立は入口に裏側を向けていた。観客はこれらの展覧会をまず裏側から、制度や日常の側から鑑賞した。
《トートロジー》は作品を重ねるごとに、場所を変えても、過去の作品の要素を蓄積していった。彼女たちは、表現を条件づけるさまざまな制度を意識したように、過去の共同作業を新たな制作の条件としていったように見える。そして、視覚の欠如と一定の規則にしたがう行為を通じて、互いの存在を確認しあうパフォーマンス《時を織る》を最後に、過去の蓄積を保ちきれなくなったかのように、シリーズは計画の途中で動きを止めた。
上田と渡辺が《トートロジー》を通じて制度や共同作業とどう向き合ったのかを考えようとするとき、思想や文学の参照は手がかりのひとつになるだろう。例えば、堀浩哉や和田守弘がル・クレジオを参照したように、同時代に翻訳されたヌーヴォー・ロマン、フランス文学の影響は当時の若手美術家に共有された。《トートロジー》はその参照の豊かさという点で特筆すべきである。なかでも、シモーヌ・ヴェイユの『重力と恩寵』における「真空」という観念の参照は、このシリーズが不在や欠如というテーマを一貫して扱っただけに、興味深い。ヴェイユによれば、人間の魂はたえず「重力」の作用を被っており、「恩寵」がもたらされるには自分のなかに「真空」がなければならない•12。《トートロジー》における不在や欠如がヴェイユの「真空」という観念と結びつくなら、「重力」に対応するのは表現をめぐる制度や蓄積される過去だろうか。
《トートロジー》を考えるためのもうひとつの手がかりは、やはり上田と渡辺が師事した高松次郎の影響である。彼女たちが学んだ「塾」の71年のカリキュラムは、『老子』や中原佑介の著作の読書に加えて、ル・クレジオの読書や、「不在性について」をめぐるパネル・ディスカッションが含まれた•13。高松の計画には「レオナルド・ダ・ヴィンチの手記」の読書もあり、また彼のノートには「日常」や「制度」をめぐる思考が記された。たしかに、ヴェイユの思想や高松の教育が《トートロジー》といかに関わるのかを言いあらわすのに「影響」という言葉は粗雑すぎる。上田と渡辺によるヴェイユと高松に対する解釈も重要である。より的確な表現を見つけるにはいっそう慎重な検討が必要だろう。
[註]
1|『京都アンデパンダンの20年──出品目録集』京都市美術館、1978年、40頁。
2|本論考は筆者による堀えりぜ(渡辺恵利世)氏(2021年8月24、25日、東京)へのインタビューと、堀氏と小倉隆氏にご提供いただいた資料に多くを負っている。そのため、本論考の解釈は堀氏の視点にもとづくところが大きいことを付言しておきたい。
3|「高松次郎の「アトリエ開放展」」『美術手帖』第335号、1970年12月、139頁。藁科英也「高松次郎の「塾」──一九七一年度の活動」『千葉市美術館研究紀要 採蓮』第12号、2009年、61〜63頁。
4|堀えりぜ「トートロジー」2022年[リーフレット01頁]。
5|峯村敏明は87年に上田の個展に寄せた評論で、《アリアドネの糸》を「絵画に対して深さと展開性の両側面を(非再現的手段で)回復してやること」の上質な実践例と評した(峯村敏明「クレタ人は嘘をつかない」『上田佳世子展──生物的な潮汐』展覧会リーフレット、1987年)。また、もし2年遅く発表されていたら、彼が77年に企画した「絵画の豊かさ」展の重要な構成要素となるべき作品だったと述べた。峯村はなぜかこの作品の発表年を75年と誤解し、渡辺に言及しなかった。
6|「上田佳世子展 MON・U・MENT」『美術手帖』第408号、1976年6月、315頁。『上田佳世子展──生物的な潮汐』。小倉隆「美術科教育:子どもの支援のあり方」『常葉短大紀要』第44号、2013年、134〜135頁。
7|上田は1990年から1992年にかけて『伊豆新聞』に「子どもの絵──みることと考えること」を連載した。この文章に書き下ろしを追加した『目めめ手てて──子供たちの夢工房から』(麦秋社、1996年)を発表した。
8|「ホーム・マイ・ホーム」『万国博美術展総目録Ⅴ 現代の躍動』財団法人日本万国博覧会協会、万国博美術館、1970年、134頁。
9|島州一「カーテンを閉めたら窓があった」『美術手帖』第395号、1975年6月、162頁。『榎倉康二展』展覧会カタログ、東京都現代美術館、2005年、180-182頁。
10|高松次郎「日常的空間での表現とは?──彦坂尚嘉の“自宅”個展」『美術手帖』第344号、1971年7月、21頁。
11|堀「トートロジー」(同上)。
12|シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵──シモーヌ・ヴェイユ「ノート」抄』田辺保訳、講談社、1974年、9〜25頁。
13|藁科英也、前掲書、64、67〜69頁。