リーフレット 12-1


トートロジー

堀えりぜ

「日本美術サウンドアーカイヴ──上田佳世子、堀えりぜ《トートロジー》1973年」リーフレット、2022年、1-2頁。




「トートロジー」は1973年に渡辺恵利世(堀えりぜ)と故・上田佳世子が8回連続で行った作品行為の総称である。
渡辺と上田は、高松次郎主宰の「塾」の受講生として出会った。


学園闘争の60年代末と、1970年の大阪万博からすでに3年がすぎた。激動の時代が終わり、毎日がただ水の様に、私達の日常として足元を流れて行った。
過去に過ぎてしまった日常が、今もあまり変わりない状況で、螺旋状に生まれては消えていく毎日の中で、女性という同じ身体性をもっている2人の視点から、反復された過去を反芻し、反復するかもしれない未来を見据え、絶えず生みおとされ続ける差異に敏感に反応しながら、縦糸に横糸が杼(ひ)で打ち込まれていき織物をなすように、制作を繋ぎつづけようとした。
バックステッチ(返し縫い)という刺繍のテクニックのレトリックを使い、出来事の起きた場所から出来事が起きる場所に糸をさすように、ひと月ごとに物語る主題を変え、私達が共同生活を営む場所を中心に、1年間展示行為を発信し続けること。
案内状の文字は、刺繍の下絵用のインクを使用、文字は、しだいに薄くなり、いつか消えていく。


1 予定調和的半過去(1月)

共同アトリエ(東京都大田区南雪谷)
点滴用ガラスボトル、点滴用装置、水道水、キャンバス生地

点滴用ボトルから、一定の速度でリビングの床に敷かれたキャンバス生地の上に、水が落ち続ける。
布地は水を吸収し、染みながら水の図を生成する。天井の1点から床を打つ音とともに、垂直に落ち続ける透明な水が描いた図は、正しくは絵画とは呼べない。
だが、その水の図を凝視しながら揺れていく感情が、絵画を鑑賞して揺らぐ感情の波に近い事も、否定できはしない。

「一本の直線で出来ていて眼に見えず、切れ目のない迷路」(ホルヘ・ルイス・ボルヘス『伝奇集』)


2 アリアドネの糸(2月)

京都市美術館(「京都アンデパンダン」1973年2月18日〜3月2日)
キャンバス生地2枚

キャンバス生地の1枚は、布の中央部分を長方形に縦糸が抜かれている。もう1枚の布も同サイズで、横糸をぬかれている。
2枚の布は、重ねて壁にピンで固定されている。布はそれぞれに抜かれた糸の方向へと撓み歪む。左右を細いピンだけで留められた2枚の布は、自重でその布自体のアウトラインも崩してしまっている。
抜かれてしまった縦糸と横糸の描く陰と光は、私達には未だ見えない絵画の空間へと誘い、その不在の意味を考えさせはしないか。

テーセウスが生きて戻る事を前提に渡されたアリアドネの糸は、半身半獣のミノタウルスの殺戮を目撃し、洞窟の難解な迷路を脱出するテーセウスとともに、光りに溢れる出口まで同伴して行く。
迷路をさまよう糸は複雑に光に向かう軌跡を描きながら、暗闇を破る生の象徴としての役割を果たす。
私達は、迷宮の道をたどり、糸に導かれる光の線を、不在の絵画にかさねた。


3 Sand Box(3月)

共同アトリエ(東京都大田区南雪谷)
生活空間、天井までの高さの角材3本

私達の生活空間である2LDKの部屋それぞれの中心に、柱用として使われる建築用資材角材が立てられている。

人と人の距離を、2LDKの基準値で計測された模範的解答のような間取りがこの住居だ。男、女、子供の生活が可能なイメージがこの空間を支えている。
そこに私達は女同士で住み、子供を集めて絵画教室を開いていた。
そんな静かで整えられた室内に、生の角材が暴力的に侵入することで、滑らかな動線はさえぎられる、安全装置がはずれたような不安でおちつかない揺らぎが生じ、この部屋は、砂のように脆い。

「なぜなら、その空間は保護されないであろうから。なぜなら、その限界と終末とに拡がって思いめぐらされた全体は、ゆっくりとふたたびとざされ、凝結し、拡大し、あまりにも単純な、あまりにも無縁なイメージにゆがめられてしまうだろうから。すべてをそれに応じて消しさるとか、明白な、否定しえない面積と容積と重量を記憶に提供するとかいったことは、僕にはついにできないことであったろうから。」(フィリップ・ソレルス『公園』)


4 手摺りにまたがって降りないで(4月)

道玄坂画廊(東京都渋谷区)
階段、画廊空間、姿見、観客

渋谷駅から道玄坂をあがって、中程の所にある画廊。渋谷の雑踏を抜け、忘れ去られたような古い建物の階段をのぼると、古めかしい金色の字体で道玄坂画廊と書かれたドアがある。そのアプローチから物語は始まっている。
画廊という名を持つ、空洞の場所。数々の絵画作品が設置されてできた壁の傷跡が、歴史として、残り香のように空間にただよう。照明装置すらろくに備えていない、暗い空間。
展示物は? 鏡があるだけ。観客は、その鏡の中に、放置されてしまったような自分自身の鏡に写る姿をみいだすだけだ。
その空間にたたずんで欲しかった。

タイトルはマラルメの詩から(マラルメ『イジチュールまたはエルペノンの狂気』)


5 水晶の波は(5月)

共同アトリエ(東京都大田区南雪谷)
網戸に使用されるプロ用ロール緑1本、虫ピン、2LDKの室内、窓から見える風景

玄関から、呑川へと続く坂下の家々が見おろせる窓まで、薄緑の網状の布が、一定の間隔を保ち天井から吊るされている。
ドアを開けると、薄緑に室内が靄っていて、周囲がはっきりとは見渡せない。
風と光を通し、虫を防ぐための網状の布は、微小の四角いスケールの連なりで、その規則ただしい編み目からぬけてくるのは、不自然に差し込む天井の蛍光灯の光。光は、積み重なり変化し揺れながら、無色透明な水晶のように、正確に共振する。
押しては引く波のように。

「空中には、無数のまっすぐな光った線がみちみており、たがいに交鎖し、織り合わされているが、それらの一本たりとも他の線の進路を借りているものはない。又それらは、物体の一つ一つに対して、それらの存在理由の(それらの証明の)真の形を表象している」(ポール・ヴァレリー『ダヴィンチの方法』より「レオナルド・ダヴィンチ手稿」)


6 真空の(6月)

青光画廊(東京都渋谷区)
私物の椅子、二人の私物の本6冊、ベニヤ板、テープレコーダー、スピーカー

室内に入ると、一脚の椅子の上に2冊の本が置かれ、床には4冊の本が直に置かれている。それだけ。
仮設壁の奥からは声が聞こえる。
二人が交互に本を読んでいる声をテープに録音したものだが、どちらの声なのか、どの本をよんでいるのかも判然とはしない。そもそも聴く意志がなければ。言葉としても成立しないほどはっきりとは聞こえない。
私には、薄いアパートの壁から聞こえてくる他人の生活音に支えられた経験がある。
隣の住人は、規則正しく毎日をおくる。自分自身がたてている音が、どんな音であるか考えたこともないだろう。グラスを洗う水の音、椅子を引いたり、ドアをバタンとしめたり、鉄骨の階段を駆け下りていく靴音など。それを聴くことが、私が生きている証だった。
ただ音として、息を継ぐ言葉が、絶えず室内に降り積もる。意味もなくし、無になる過程を展示したかった。

「恩寵がみたす。だが恩寵は、それを受け取る真空があるところにしか入ってくることができない。そしてまたこの真空をつくりだすのも恩寵なのである」(シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』)


7 真水(7月)

青光画廊(東京都渋谷区)
ソファー、ガラス製コップ、水、ベニヤ板、椅子2脚(これらは全て画廊に備品として置かれていた)、テーブル、椅子、キャンバス生地(1月に床に置いて使用した物)

ガラスのコップは、水で満たされている。
1月の展示に使われた、点滴の水を受けて暗い水跡の染みを創りだした布は、しかしすでにその染みを思い出させる事もなく乾ききって、備品のソファーにかぶせられている。
水の入ったコップが、危ういバランスでその上におかれている。

訪れた人々は、その奥にたてかけられたベニヤ板の狭い隙間を通り、椅子に座り会話を交わす。
この画廊に、人はほとんど訪れない。道玄坂画廊と同様に、無名の作家のための無名の画廊という不可能性にみちた場所。
そこでの会話は、美術からは遠い噂話や近境報告。そして作品のコンセプトは、たぶん問い返されない。
コップの中の水は関心をもたれることもない。

「飲みたい水が音たてていた」(種田山頭火)


8 時を織る(8月)

青光画廊(東京都渋谷区)
目隠し用の黒の布、テーブル、椅子2脚、ビニール布、カード(白の画用紙)、黒のサインペン(太字)2本

室内には1台のテーブルと、向かい合う2脚の椅子がおかれ、女性二人が腰掛けている。二人の眼は黒い布でかくされ、視覚的情報は遮断されている。互いに息を整え、呼吸を読み取りながら、無言で紙に数字を書きつける作業を始める。相手の動きを読み取りながら、作業が進んでいく。書かれた紙は床に捨てられ、1枚ずつ落ちた紙は、散らばり拡がっていく。
室内には、60枚の紙に書き付けられるサインペンの音と、床に落ち続ける紙の音が、ずれながら重なっていく。

「互いにすべてを期待し得ると同時にすべてを恐れることもあり得るある種のごく稀な人々が、互いに相手を認めあうのは、つねに、強烈きわまりない挑戦力によってである」(アンドレ・ブルトン『ナジャ』)