リーフレット 11-2


「アフェクト」を聴く──柴田雅子《AFFECT-GREEN Performance》

金子智太郎

「日本美術サウンドアーカイヴ──柴田雅子《AFFECT-GREEN Performance》」2021年。



谷新は1976年5月24日の『日本読書新聞』の美術欄に「表現の性転換がなされたのか──柴田雅子、サルサシタカオ[ママ]らのイベントを中心に」と題された記事を寄稿した•1。この記事は柴田雅子が同月9日にときわ画廊で行なった《AFFECT-GREEN Performance》を中心に、同時代の「イベント」の状況を紹介した•2。塩見允枝子による65年から75年までの作品をまとめた書籍の出版•3。サルハシタカオによる画廊の壁に何時間もテニスボールを投げつける行為•4。乱数発生器によって演奏を制御する浜田俊一《RoatchⅠ》と芦川聡《RoatchⅡ》•5。「表現の性転換」が何を意味するのかはこの記事だけからは読みとりにくいものの、それまで平面や色彩に関わる表現を続けてきた柴田の方向転換と、行為をめぐる同時代の表現の動向をおそらく言いあらわしていた。この記事が92年に出版された谷の著作に再録されたさい、「表現の性転換」に代わって「パフォーマンスの現在」という題がついた•6。

この記事を谷の著作に再録するために、出版社は柴田に写真の使用許可を求めた。その返信で柴田は《AFFECT-GREEN Performance》の手続きの詳細を書き記した。手紙の下書きが現在も柴田の元にある。その一部を引用しよう。

A)ある地点から別の地点まで移動する際に目につくもの、感じることなどを、アトランダムに私が言葉で言いながら、周囲の音と共に収録する。(テープA)

A’)Aをムービー・カメラで後ろから一定の距離を保って撮影して行く(フィルムA’)(この時は私が住んでいた上目黒から、神田のときわ画廊までとしました──約50分)[中略]

B)テープAを流し、それを聞きながら即興的にイメージされる音を、訓練された声の持ち主に発声してもらい、同時録音する。(テープB──AとBの音が重なっている)(この時はクラシックの声楽家に頼みました。)

C)テープBを流し、それを聞きながらイメージされる音を即興で打楽器奏者に打ってもらい、それを同時録音する(テープC──AとBとCの音が重なっている。この時はジャズのドラマーにドラムをたたいてもらいました。)

テープABCをそれぞれ2本ずつのスピーカーから流せるようにし、かつA’のフィルムを画廊奥正面の壁に映写できるようにセッティングします。

D)ABCA’を、それぞれ約10分ずつずらせて順に流してゆき、それをテープDに録音する。(この時私は、それぞれのテープを流し始める際に、その2本のスピーカーの中央に立ち、作者という発信素と、その場の音との異と同を示唆してみたという程度です。)•7

柴田が所有するフィルムには緑一色の服を着た彼女が東京を移動する姿が映っている。残念ながらテープは見つからなかった。

71年にデビューした柴田は70年代を通じて活動が注目された作家のひとりだった。77年の「第10回パリ青年ビエンナーレ」に参加したさいは、パリのファリデ・カド画廊でパフォーマンスも行なった•8。この時代の柴田の活動は「アフェクト」というテーマを絵画、インスタレーション、パフォーマンスといったさまざまな手法を通じて探求するものだった、とひとまずは言えるだろう。そのなかには《AFFECT-GREEN Performance》以外にも音と関わる作品がいくつかあった。

本論考はまず柴田の70年代の活動をたどり、その概要を明らかにする。次に当時の評論や柴田自身の文章を手がかりに、彼女の作品の特色や位置づけについて考える。柴田は70年代末より絵画に専念するようになった。そして、80年代後半以降はあまり発表をしていない。現在、彼女の作品にアクセスしにくいとすれば、このことが大きな理由だろう。しかし、少なくとも70年代の日本美術と音の関わりをたどるとき、柴田は重要な作家のひとりであり、特に《AFFECT-GREEN Performance》は当時の美術家と音楽家の共同作業として注目すべき作品である。柴田は77年に「今までも、ずっと絵画作品をつくってきたつもりである」と述べた•9。彼女はどのような経緯でこの作品を発表したのか。


「アフェクト」の自覚

秋田県大館市に生まれた柴田は女子美術大学に進学し、70年に卒業した。大学では前衛美術に関心のある同級生が見つからず、他方で60年代に活躍した女性美術家とは隔たりを感じたという•10。71年7月に村松画廊で開催されたはじめての個展では大きな絵画が数点、壁を覆い、床にも置かれた。壁にかけられたのは、青色のグラデーションで構成された作品や、縁だけが青色に塗られた作品だった。床には、縁に砂を盛ったキャンバスや、それと同じかたちと大きさに敷きつめた砂と小石の平面、綿でふちどったキャンバスが展示された。

中山公男はこの個展を「抽象から物へ、平面から触覚的素材へと、近代絵画が無数にくりかえしたヴァリエーションのひとつ」と解釈した•11。そして、この新人作家の作品の明瞭さや叙情性を讃えながらも、この個展には現代絵画の虚しさがあらわれていると評した。なぜなら「コラージュの手法以来の情熱、物へ、現実へ、触覚へと帰りつこうとする意欲は、いつでも、作家の心、現代の心を十分に投影しえない」からだ。しかし、柴田の以後の歩みは中山が想定しなかった方に向かったと言えるだろう。彼女は作家の心の投影だけでなく、人間や物のあいだのアフェクトの探求に進んだからである。

柴田は71年11月から12月にかけて、アルバイト先の田村画廊で知りあった菅沼緑、羽生真らの協力をえて、鵠沼海岸でインスタレーションを展示した•12。彼女は30センチ×30センチ×300センチのコンクリートの柱10本を、砂浜から海中に向かう直線に沿って、少しずつずらしながら並べた。柱のうちの5本の上部面には0.5ミリの厚さの銅板を貼った。そして、15日間放置し、変化していく様子を写真で記録した。満潮時は柱の連なりの中ほどまでが水に没した。砂浜側の柱は風に吹かれた砂に埋まり、海側の柱は波によって位置を変えた。塩が銅板の腐食を早めた。柴田はこの《鵠沼海岸に於ける作品呈示》について、自然のなかに「人的行為を投入、放置することにより、自然の行為(力)と人的行為との間に抵抗が生じ、そして軋轢の軌跡が顕在化」すると説明した•13。ここには彼女のアフェクトという発想のきざしが読みとれるものの、この言葉が実際に使われたのは次に発表された作品からだった。

72年9月、柴田は村松画廊の壁に沿って、人ひとりが通れるほどの間隔をあけて、綿の壁を建てた•14。この壁は天井近くまで届いたため、鑑賞者は壁に沿って細い回廊を歩くしかない。平井亮一は、鑑賞者は作品と距離をとれず、視覚的にも心理的にも圧倒的な状況を体験すると評した•15。柴田は空間に作品を置いたのではなく、空間全体を何ものかに変え、そのなかに鑑賞者を包みこんだのだと。柴田はこの個展をふりかえり、綿の壁が周囲の音を吸収したために、ギャラリーの静けさが印象的だったと語った•16。峯村敏明はこのことを「綿の充填による画廊空間の消音化」と表現した•17。

柴田は《AFFECT a Cotton Space》と名づけたこの作品について、筆者によるインタビューのなかで次のように語った•18。構想時、これまでと大きく異なる作品だったため、当初は語る言葉がなかった。そこで、辞書で言葉を探し、人間や物事のあいだの影響関係を意味するアフェクトという言葉に惹かれてタイトルに選んだ。柴田は作家の内側からもたらされる色彩や音だけでなく、それらが他者にいかなる影響をあたえるのかを重視した。影響関係に対する注目は《鵠沼海岸に於ける作品呈示》にも見られた•19。柴田が考えるアフェクトは人間の心のありかたや人間どうしの関係にとどまらなかった。こうした彼女の発想と近年の「アフェクト理論」とのつながりを検討することもできそうだ•20。しかし、この論考は性急な一般化は避け、柴田の70年代の活動におけるアフェクトの探求の展開をたどろう。

73年2月の「京都アンデパンダン展」に柴田は《AFFECT-GREEN》を出品した。この作品は京都市美術館の一室の床にアクリル絵具で緑色の帯を描いた•21。幅約30センチの帯は長方形の部屋の長辺と平行に、床の中央を端から端まで通りぬけた。記録写真には帯の近くに緑一色の服を身にまとった柴田の姿が見える。彼女はいわゆるパフォーマンスをしたのではなく、設営から展覧会がはじまり、彼女が東京に戻るまでの数日間、緑色の服を着た──作品と彼女が相互に影響しあったかのように。峯村はこの緑色を「色の集合体」と評した•22。この作品は77年まで続いた「AFFECT-GREEN」シリーズのはじまりだった。


色彩を通じたアフェクトの探求

柴田は《AFFECT-GREEN》に先立つ72年9月に彦坂尚嘉とのユニット、雅子+尚嘉として邦千谷舞踏研究所で《SEA FOR FLOOR》、《SEA FOR WALL》、《SEA FOR ROOF》を発表した•23。「テープ・デュエット」と称した《SEA FOR FLOOR》と《SEA FOR ROOF》はまず、波音を収録した1本のオープンリールテープを会場の床と屋根に長く伸ばした。そして、それを柴田と彦坂がそれぞれのテープレコーダーで再生し、二つの波音を重ねあわせた。《SEA FOR WALL》はおそらく彦坂の《Upright Sea》の展開のひとつであり、これらの作品では彼がイニシアチブをとった。さらに同年、京都市美術館で開催された「映像表現’72」展でも彦坂と柴田は共演した•24。この一連のデュエットを経て、「京都アンデパンダン」に柴田が《AFFECT-GREEN》を、彦坂が《Read Music》を出品した後に、二人のユニットは「ミート」シリーズに進んだ。

雅子+尚嘉の「ミート」シリーズは彦坂のそれまでの作品と《AFFECT-GREEN》の緑色を組みあわせる試みだった。例えば、彦坂が70年にはじめた自室またはその再現の床にラテックスを撒く《Floor Event》シリーズを受けて、73年4月に田村画廊で開催された《AFFECT-GREEN meet Floor Event》は彦坂の自室の再現を緑一色に塗り、その床に白いラテックスを撒いた。このとき彦坂と柴田はともに緑色の服を着た•25。73年を通じて二人は「ミート」シリーズを重ね、ユニットの作品は「No.10」に達した•26。このシリーズと柴田のアフェクトの結びつきは明らかだった。このシリーズは彦坂と柴田の作品が影響をあたえあい、そうして生じた事柄や情態を示したからである。少なくとも柴田にとって「ミート」シリーズはアフェクトの表現の一環だったと考えられる。

このシリーズの後に柴田は色彩をめぐる探求を深めていった──それはまず絵具をめぐる探求となった。74年12月にときわ画廊で展示された《AFFECT-GREEEN》は、さまざまな緑色に塗られた等身大ほどの大きさのパネル13枚を壁に立てた•27。柴田はこれらのパネルそれぞれに異なる色彩を塗り、その上から緑色を吹きつけていた。早見堯はこう評した。

グリーンと捕色に近い色の平面はグリーンをかけたことが認められるほどの色むらができているが、そうではないものはグリーンをかけたとはほとんど確認しえないものである。それはグリーンに関するアフェクションの度合いの差を表している •28。

柴田の元に残る自身の文章から、彼女が絵具の化学的組成、特に混色のさいの反応などに関心をもっていたことが伺える•29。柴田の「アフェクト」は人間の心や人間どうしの関係にとどまらなかった。かつて波がコンクリートの柱を動かす過程を見守ったように、彼女は絵具どうしの影響関係が生みだすものを観察した。この作品に続く《15色におけるAFFECT-GREEN》シリーズを通して、柴田は色彩どうしの関係をごく小さなカラーパネルを用いてよりシステマティックに探求した•30。ただし、谷によれば、無数のカラーパネルからなる帯には一目でわかるような規則性は認められず、全体としては「アンチ・システムとしての実践」に見えたという•31。

73年の《AFFECT-GREEN》以降、柴田はこうして主に二つのしかたで色彩を通じたアフェクトの探求を行なった。この時期の彼女の方法は順列組みあわせだった。当時、こうした方法はいわゆる「美共闘世代」──例えば、「美共闘REVOLUTION委員会」が中心となって組織し、柴田も雅子+尚嘉として参加した「〈実務〉と〈実施〉・12人展」の出品者たち──に共有されていた•32。ただし、柴田にとってこの方法は、コンクリートの柱や綿の壁を通じてかたちづくられたアフェクトという発想と結びついていたことが何よりも重要である。


アフェクトと音

《AFFECT-GREEN Performance》は色彩による順列組み合わせ実験の途中で、唐突に発表されたように見えたようだ。谷は柴田の表現の変化を、それまでの方法に「カタストロフ現象」が生じたと語った•33。しかし、彼女のアフェクトの探求を通して見れば、システマティックな展開だけが重んじられたわけではないことがわかる。後に述べるように、このパフォーマンスの手続きはアフェクトをめぐる柴田の発想をよくあらわしていた。

参加者や音響映像機材の配置もこの作品の重要な要素だった。機材の配置は正方形が4つの小さな正方形に分割された図形を使って説明できる•34。図形の上側をときわ画廊の入口側、下側を奥の壁側とすると、図形の中央上の頂点のさらに上に、マイクロフォンと録音用レコーダーが置かれた。映写機は中央上と中央の頂点のあいだに置かれた。映像が投影されたのは中央下の頂点のさらに下にある壁だった。図形中央の各頂点に3台の再生用レコーダー、左右の各頂点に3組のスピーカーが置かれ、スピーカーはマイクロフォンに向けられた。声楽家は図形中央、打楽器奏者は中央下の頂点に位置し、マイクロフォンを向いてパフォーマンスをした。

冒頭で引用した手続きにしたがい、まず柴田の声を録音したテープAが再生され、それを聞きながら声楽家が即興的に発声した。次にジャズドラマーの渡辺毅がテープBを聞きながら演奏をした•35。最後にテープA、B、CとフィルムA’が10分の間隔を空けて順に再生され、重ねあわされた。緑一色の服をまとって街を移動する柴田の姿が画廊の奥の壁に映しだされてパフォーマンスは終了した。音響映像機器を操作したのは「〈実務〉と〈実施〉・12人展」に参加した美術家、映像作家の渡辺哲也と、当時、出光真子や和田守弘の映像作品などにサウンドトラックを提供した音楽家の吉田秀樹だった•36。

谷は柴田の方向転換に驚いたものの、アフェクトの探求という軸は変わっていないと判断した•37。柴田は先に引用した手紙にこう書いた。

音という、かなり客観的に計測し得る時間と物質を併せ持った素材に、ある変容を重ねて加えてゆき、さらに素になる音を拾っていった際の映像という時間的視覚を重ねて、私流に言えば一種の絵画的時空間を形成し得ないか、との試みでした。

この場合の変容とは、私というひとりの人間を通して拾った音を、声楽家という声の訓練を経た別の人間を通して行うことであり、さらにその変容をもう一度、打楽器奏者という別の人間の感覚を通して増幅させ、かつ、それらを時間的にずらせて重ねてゆくことで、予測を越えた音の色やかたちが形成されてゆくのを感受し得るのではないか、と考えたのです。(人の声と打音は、私が音をイメージするとき、まず浮かんでくるものでした。)•38

この文章から柴田が音──周囲の音、自身の声、声楽家の声、打楽器の音──を変換し、ずらして重ね、映像と組みあわせるという手続きを通じて、異質な音と映像が影響をあたえあう状況をつくりだそうとしたことがわかる。彼女はそうすることで「音の色やかたち」と映像からなる「一種の絵画的時空間」を形成しようとしたという。この言葉については後にあらためて考えたい。

《AFFECT-GREEN Performance》の翌月、柴田は真木画廊で《AFFECT-GREEN Color & Word》を発表した•39。初日に開催されたパフォーマンスでは再びテープレコーダーが使われた。一本のオープンリールテープループを二台のレコーダーにかけて、ひとつのレコーダーが録音した音をもうひとつが遅れて再生する仕組みだった。会場の壁には80センチ×50センチほどの半透明の色紙が数枚重ねられ、空間をとりまくように貼られた。その数は15束、色彩は10種類。会場の入口に透明の壁が立てられ、観客は会場の外からその壁越しに柴田のパフォーマンスを見た。柴田はまずマイクロフォンを手に会場を歩きまわり、いずれかの色彩の名前を発声し、次に「緑」と発声することをくり返した。協力者は柴田が発声した色彩の色紙を壁から1枚剥がし、入口の透明の壁に、順に重ねて貼った。柴田は同じ色紙を自分が発生した場所の床に敷き、その上に緑色の色紙を重ねた。柴田が手にするマイクロフォンは会場奥にあるレコーダーにつながり、彼女が発生してしばらく経ってから、スピーカーがその声を再生した。透明の壁は重なった色紙によって次第に不透明になり、観客が会場を見通せなくなったときにパフォーマンスが終わった。

77年に開催された白樺画廊での個展、パリ青年ビエンナーレ、グループ展「絵画の豊かさ」(横浜市民ギャラリー)に、柴田は《15色におけるAFFECT GREEN Audio》を出品した•40。その副題には「聴」という表記もあった。「絵画の豊かさ」展のヴァージョンは、650センチ四方の布を天井から壁に沿って垂らし、上部に15色の塗料の入った小さな容器を並べて取りつけた。容器から垂れたひもを通じて塗料が下の布にこぼれ落ち、縦長の染みをつくった。さらに、布の左右に緑色の塗料が入った容器が取りつけられ、両者は何本ものたわんだひもによってつながれた。容器から塗料がひもに染みこみ、ひもと布がふれた部分に緑色の弧が描かれた。テープレコーダーこそ使われていないものの、この作品の副題は上記の二作との連続性をあらわしていると考えられる。柴田はこの副題を通じて、滴り落ちる色彩の動きを、重なりあう音を聞くようにとらえることを促したのかもしれない。この展覧会のカタログで柴田は次のように述べた。長くなるがすべて引用する。

わたしは自分を絵描きだと考えている。今までも、ずっと絵画作品をつくってきたつもりである。自分なりの絵画を確立するために、様々の避けがたい試行錯誤を経て、平面にたどり着き、わずかに何かが見えてきたように思う。わたしには絵画の本質が抽象にあるとは思えない。また、絵画がそれだけで自立した現実であるとも思えない。絵画は何らかのかたちで現実一般と関係をとるものであったし、これからもそうだろう。では、その現実との関係がどのようなかたちで実現されるのか。とてもむすかしい課題ではあるが、絵画の探求とは、結局この問題にかかっているのではないだろうか•41。

「絵画の豊かさ」展以後、彼女は80年代半ばまで絵画の個展を開催した•42。80年にときわ画廊に展示されたのは、横幅8メートルほどのキャンバスを用いて色彩の層を見せる絵画《層間》だった•43。ギャラリー16での86年の個展で発表された絵画は、薄墨を塗った紙や板にオイルパステルで何重もの曲線を描いた•44。同年より1年間、文化庁芸術家在外研修員としてフランスに滞在した後、新作の個展は開催されていない。柴田はその理由を語らなかった•45。


70年代の柴田と絵画

峯村による評論「空間を取り戻した内的時間──柴田雅子の個展が意味するもの」(1976)は、柴田の活動をたどった唯一の評論であり、さらにポストもの派第一世代をめぐる彼自身の考察にとっても重要な位置にある。峯村が提唱したポストもの派とは、もの派の影響を受けながらもの派を批判的に継承した美術家を意味した•46。彼によれば、「〈実務〉と〈実施〉・12人展」に参加したようなポストもの派第一世代は、70年代前半には「システム」を用いた実践に取りくんだ。そして、この実践をふまえて70年代後半に独自の絵画、彫刻表現を見いだした。峯村は柴田をポストもの派のなかでいち早く絵画表現にたどり着いた作家のひとりと見なした。彼がポストもの派という言葉を使ったのは70年代末だったが、関連する議論は70年代を通じて次第に形成された。

この論考の最後に峯村の議論を批判的に検討することで、柴田の活動の特色や位置づけをあらためて考えたい。彼の議論は柴田の活動が当時どのように論じられていたのかを知るために、そして彼女がアフェクトと呼んだものについて理解するために、重要であることは疑いえない。まず「内的時間」をめぐる峯村の議論から見ていこう。

峯村は76年の「京都ビエンナーレ」に、出品作家を選抜する評論家のひとりとして参加し、その展覧会カタログで次のように論じた•47。かつて芸術家は産業革命の進展にともない、芸術と一般的な商品の違いを明らかにする必要に迫られた。そのとき、芸術家が注目したのが芸術の生産の「内的時間」だった。一般的な商品の生産はその成果だけが重要であり、生産の過程は無視される。しかし、芸術の生産にとっては作品をつくるための試行錯誤の過程が重要であり、芸術家はこの過程、作品の内的時間を表現に取りいれようとした。峯村によれば、近代絵画における非完結性やシリーズ性はそのあらわれだった。内的時間はこうして芸術を一般的な商品と区別する、芸術の前提となっていった。こうした議論をふまえて、峯村は近年の日本美術では内的時間を表現するために「外的システム」が使われていると指摘した。外的システムという言葉は作品がいかなる過程を経て生産されたのかを明らかにするテクノロジーやインストラクションのことを意味した。

そして、峯村は柴田の《AFFECT-GREEN Color & Word》に内的時間の表現における前進を見てとった•48。彼によれば、《AFFECT-GREEN》までの彼女の作品が取り組んだのは「視角構造の書き換え」であり、この書き換えが「affectの原義」だった。そして、《AFFECT-GREEN》で柴田は「芸術実践の他性(他者指向)」を見いだし、彦坂との共同作業を通じて「時間性をはらんだシステム」を具体化していった。この他性とは、制作を通じて作品が出発点とは異なるもの、つまり他者に、変化していく過程のことである。《AFFECT-GREEN》までの作品はこの変化が感覚のレベルに留まっていたが、雅子+尚嘉が用いたシステムはより根本的に他者に向かう変化を可能にした。しかし、次に柴田が《15色におけるAFFECT-GREEN》で用いたシステムは「他性を失った自己参照」に陥り、変化を閉ざしてしまったと峯村は考えた。この危機から柴田を救ったのが《AFFECT-GREEN Color & Word》におけるギャラリーの空間だった。峯村によれば、この作品では柴田自身ではなく、空間の諸条件が色彩の操作を決定したことが重要だった。空間は作品に他性を導入した。不透明になった壁が空間を閉鎖したとき、パフォーマンスが終了した。峯村は70年代にシステムを用いた美術家がしばしば柴田のように自己参照するシステムに閉じこめられたと見なした。そして、柴田のパフォーマンスがこの危機を「治癒」すると論じた。

峯村は自身が企画したグループ展「絵画の豊かさ」の作品図版をともなう評論「絵画の遍歴──見ることとつくることの統合を求めて」(1978)で、内的時間をめぐる議論をさらに展開させ、絵画の再評価を行った•49。この論考で芸術の生産過程を意味する「内的時間」という言葉に相当するのが「つくること」だった。また「外的システム」の先にあるのが「絵画のシステム」とされた。彼によれば、絵画とは「面を限定することのうちにあらわれる、つくることの構造表明」であり、「相互主観的体験の構造化される場」である•50。システムから絵画へという峯村の主張は後のポストもの派論の軸となった。そのなかで、柴田はいち早く絵画にたどり着いたポストもの派第一世代のひとりとされた•51。

峯村の議論と先に引用した柴田の作品と言葉を比べると、絵画に対する認識の違いが見てとれる。峯村は面をつくることが絵画の条件であると主張した。しかし、「ずっと絵画作品をつくってきた」と書いた柴田はより柔軟に、絵画、インスタレーション、パフォーマンスのあいだの区別よりも結びつきに注目した──《AFFECT-GREEN Performance》も「一種の絵画的時空間」の形成の試みとされた。柴田にとって他者、他性は一貫して重要だった。アフェクトは常に異質なもののあいだに生じる。この発想を突き詰めると、絵画と現実のあいだの関係を問うことになるのかもしれない。柴田は《鵠沼海岸に於ける作品呈示》のころにはアフェクトの手がかりをつかみ、沈黙に包まれた《AFFECT a Cotton Space》でこの発想をはっきり意識した。たしかに峯村も「内的時間」や「つくること」にとって他者、他性が重要であると強調した。しかし、異質なもののあいだの関係をめぐるアフェクトという発想はこれらの言葉と比べて、中山の評論のような作者自身を中心とする思考からさらに遠くにあるように見える。

柴田の70年代の作品はテープレコーダーを他者、他性を導き入れるために使用した。《AFFECT-GREEN Color & Word》のテープディレイシステムは柴田の言葉を時間的、空間的に彼女から切り離し、観客の意識を色と言葉の関わりに向けた。このシステムは雅子+尚嘉が用いた2台のテープレコーダーにその原型が見られた。柴田と彦坂は一本のテープに収録された波音を二つの音に分割し、それらを重ねあわせた。そして、《AFFECT-GREEN Performance》でも柴田はレコーダーを使って音を動かし、変換し、ずらして重ねあわせた。そうすることで、自身の声が他者に影響をもたらしていく過程を示そうとした。

柴田による70年代のアフェクトの探求は「聴」を副題にもつ絵画以降、絵画に収斂した。にもかかわらず、彼女の発想は峯村の発展的歴史観とは異なる、70年代日本美術史のより柔軟なとらえかたを示唆するのではないか。柴田は絵画に軸をおきながら、人間と物質、色彩と音などが互いに影響をあたえあう過程を見つめた。彼女の絵画、インスタレーション、パフォーマンスの関係もそのような影響をあたえあう関係としてとらえることができそうだ。特に《AFFECT-GREEN Performance》以降のアフェクトの探求はこのことを意識していたように見える。柴田は内的時間や平面を決して軽視しなかったが、これらを作品の中心におくのではなく、異質なものどうしが触発しあう過程をつくろうとした。

[註]
1|たにあらた「表現の性転換がなされたのか──柴田雅子、サルサシタカオ[ママ]らのイベントを中心に」『日本読書新聞』1976年5月24日、第8面。文中には「サルハシタカオ」とある。おそらくサトウ画廊で同年4月に展覧会を開催した「猿橋たかを」のことだろう(「展覧会案内」『美術手帖』第406号、1976年4月、296頁)。
2|柴田の作品のタイトルには小さな揺れがよく見られる。この論考ではもっとも簡潔なタイトルを記し、註で別の表記について補足する。《AFFECT-GREEN Performance》には「Trilogy」という副題がつくことがあった。
3|詳細は書かれていないが、おそらく『スペイシャル・ポエム』(私家版、1976年)だろう。
4|サルハシについては76、77年に楡の木画廊、真木画廊、ときわ画廊でも個展を開催したこと以外、詳細がわからなかった。
5|これらの作品の詳細は谷中優「即興表現における実践と考察」『人間科学研究(金沢星稜大学)』第3巻第1号、2009年、33-34頁。
6|たにあらた『回転する表象──現代美術|脱ポストモダンの視角』現代企画室、1992年、194-197頁。
7|柴田から現代企画室の渡辺謙に宛てた手紙の下書き(1991年5月19日)[柴田雅子「渡辺謙氏への手紙」]。
8|”Masako Shibata,” in 10e biennale de paris, exhibition catalogue, Paris: Palais de Tokyo / Musée d’art moderne de la ville de Paris, 1977, pp.258-259.
9|「柴田雅子」『絵画の豊かさ』展覧会カタログ、横浜市民ギャラリー、1977年、頁数表記なし。
10|筆者による柴田へのインタビュー[2019年4月20日、群馬]。
11|中山公男「柴田雅子個展」『芸術生活』第265号、1971年9月号、170-171頁。
12|柴田雅子「作者メモ《鵠沼海岸に於ける作品呈示》」『記録帯』創刊号、1972年、13頁。平井亮一「展覧会短評」『三彩』第284号、1972年2月、97頁。柴田へのインタビュー(同上)。制作中に羽生真が16ミリフィルムで映像を撮影した。
13|柴田、同上。
14|柴田雅子「AFFECT a Cottton Space」『美術手帖』第361号、1972年12月、309-310頁。壁は鉄骨に支えられ、綿の裏にはウレタンが貼られた。ウレタンを使ったきっかけは柴田が特撮映画の怪獣造形家、開米栄三の「開米プロダクション」でアルバイトをしたからだったという(柴田へのインタビュー(同上))。また柴田によれば、先の記事の作品解説を執筆したのは彦坂尚嘉だった。
15|平井亮一「展覧会短評」『三彩』第296号、1972年12月、118頁。
16|柴田へのインタビュー(同上)。
17|峯村敏明「空間を取り戻した内的時間──柴田雅子の個展が意味するもの」『みづゑ』第857号、1976年8月、57頁。
18|この作品のタイトルは他にも「Affect-Cotton Space」などの表記がある。
19|なお、柴田が《AFFECT a Cotton Space》で綿を使った理由には《鵠沼海岸に於ける作品呈示》のコンクリートとの対比があった(柴田へのインタビュー(同上))。
20|近年の「アフェクト理論」と美術の関わりについては、例えば、林道郎「「アフェクト理論」についてのささやかな注記」『ART TRACE PRESS』第5号、2019年、26-31頁。
21|柴田へのインタビュー(同上)、柴田が所有する記録写真。絵具の下には床を保護するメディウムが塗られた。
22|峯村、同上。柴田によれば、これは彼女が峯村に語った言葉だった(柴田へのインタビュー(同上))。
23|たにあらた「〈反覆〉の理論と感性──雅子+尚嘉について」『記録帯』第3号、1972年、35頁。彦坂尚嘉「『大音楽会〈ホワイトアンソロジー〉──一九七二年、ルナミ画廊』」『凛として、花として──舞踊の前衛、邦千谷の世界』アトリエサード、2008年、82-83頁。
24|『Re:play 1972/2015』展覧会カタログ、東京国立近代美術館、2015年。
25|峯村敏明「展評 東京」『美術手帖』第369号、1973年7月、225-226頁。峯村はこの作品の趣旨を理解した上で、異質なもののあいだに「闘争」が欠けていると評した。
26|彦坂尚嘉『反覆──新興芸術の位相』アルファベータブックス、2016年、299頁。
27|早見堯「展評 東京」『美術手帖』第391号、1975年3月、223-225頁。平井亮一「展覧会月評」『三彩』第330号、1975年4月、100-102頁。この作品には「Color」という副題がつくことがあった。
28|早見、同上、224-225頁。なお、早見はこの作品における塗料としての色彩だけでなく、言葉としての色彩にも注目した。
29|柴田が所有するメモ(1980年)。
30|たにあらた「展評 東京」『美術手帖』第406号、1976年4月、236-237頁。
31|同上、237頁。
32|峯村敏明「もの派はどこまで越えられたか」『もの派とポストもの派の展開──一九六九年以降の日本の美術』展覧会カタログ、多摩美術大学、西武美術館、1987年、18-20頁。
33|たに「表現の性転換がなされたのか」同上。強いて言えば、この作品の最初のパートは雅子+尚嘉が参加した堀浩哉の《調書 Vol.2》(1973)を思わせる。この作品の参加者は自宅から画廊まで移動しながら、目に入った文字を発声して録音した(「ロングインタビュー 堀浩哉」『堀浩哉展──起源』展覧会カタログ、多摩美術大学、2014年、76頁)。参加者は堀浩哉、渡辺哲也、矢野直一、雅子+尚嘉、稲憲一郎、髙見澤文雄。
34|「第10回パリ青年ビエンナーレ」展覧会カタログや、たに『回転する表象』に掲載された写真で配置が確認できる(194-195頁)。
35|柴田へのインタビュー(同上)。声楽家については記録が残っていない。
36|同上。
37|たに「表現の性転換がなされたのか」同上。
38|柴田「渡辺謙氏への手紙」。
39|峯村「空間を取り戻した内的時間」同上。この作品の副題には「colorとwordのデュエット」「Duo by Color & Word」という表記もあった。
40|”Masako Shibata,” in 10e biennale de paris, p.259. 『絵画の豊かさ』展覧会カタログ。「〈絵画の豊かさ〉展の作品から」『美術手帖』第430号、1978年2月号、112頁。
41|『絵画の豊かさ』展覧会カタログ。
42|Cf.「柴田雅子個展」『美術手帖』第441号、1978年11月、266頁。「柴田雅子展・層間」『美術手帖』第477号、1981年2月、249頁。
43|北沢憲昭「展評 東京」『美術手帖』第465頁、1980年5月、230-231頁。
44|「展評」『京都新聞』1986年2月1日、19面。
45|柴田へのインタビュー(同上)。
46|峯村「もの派はどこまで越えられたか」同上。
47|峯村敏明「前提──その3, または内的時間の見出すシステムについて」『1976 京都ビエンナーレ』展覧会カタログ、京都市美術館、30頁。
48|峯村「空間を取り戻した内的時間」同上。
49|峯村敏明「絵画の遍歴──見ることとつくることの統合を求めて」『美術手帖』第430号、1978年2月、94-97、102-104頁。
50|同上、95-96頁。
51|峯村敏明「芸術の自覚──媒体の構築に向けて」『美術手帖』第436号、1978年7月、246-248頁。