空虚を歌う──ぷろだくしょん我S《我S DISK》
金子智太郎
《我S DISK》の収録曲はどれも合唱曲で、彼らによれば「歌のもつ本質をもっと追求しようと」したという•3。アカペラでグループ名をくり返し歌う「我Sのテーマ」と、そのバリエーション「ぷろー」は「お経のような抽象詩の語り」と評された•4。どちらの曲も録音の再生速度を上げてつくる、いわゆる「ムシ声」が聞こえる•5。「うた」と「悲恋」はフォーク調で、「悲恋」は男女のセリフやナレーションが入っている。どの歌も聞けば脱力するようなとぼけたユーモアが魅力である。
このレコードの制作の中心はメンバーの河合和であり、彼が作詞、作曲を手がけた•6。他のメンバー数名と河合が教える塾の生徒が合唱に、河合のジャズバンド仲間が演奏に参加し、ヤマハのスタジオで録音された。合唱の練習に長い時間を費やしたという。調査のなかで、他のレコードと内容の違う《我S DISK》が1枚だけ見つかった。収録曲は同じだが、「我Sのテーマ」と「ぷろー」の内容が異なる。そこで、この1枚を「デモ盤」と呼び、他のレコードを「通常盤」と呼ぶことにした。両者の違いは「我S」がこのレコードで何を表現しようとしたのかを考える手がかりになるかもしれない。
44年から45年に生まれた「我S」の8名のメンバーは、学生時代にさまざまな美術家集団によるパフォーマンスの情報を知り、なかでも名古屋で結成された「ゼロ次元」の活動を目撃したかもしれない•7。そうした先行するパフォーマンス集団と異なる彼らの活動の特色として、次の2点がよくあげられる。ひとつは現実の都市空間に、特に情報システムや大量生産品の流通システムに、大がかりな仕掛けで介入すること。後述するが、彼らはレコードだけでなく週刊誌も発行した。もうひとつは風船や空気人形をよく用いたこととグループ名から喚起される、気体のイメージ──軽さ、空虚さ──である。「我S」は「我」の複数形であるとともに、「ガス」を意味する。
高橋綾子は「我S」の活動を「蕩尽」と表現し、高度経済成長後の日本の大量消費社会への揶揄を見てとった•8。また、権威に対する反発より大衆との関わりを重視する「ポスト反芸術」と呼んだ。黒ダライ児は「我S」を、先行するパフォーマンス集団が武器とした生身の肉体を欠く「ふわふわの、へろへろした前衛美術」と評し、このことは同時期に登場した他のパフォーマンス集団にも共通すると指摘した•9。角田美奈子は「我S」の空虚さを、学生運動の挫折や高度経済成長の終わりを通じてあらわになった個人と社会の表現と見なした•10。そして、こうした表現を通じて、彼らは主体のありかたを問い直そうとしたと考えた。本論考は角田の理解に従いながら、「我S」の活動の展開と当時のメディアの状況により即したかたちで《我S DISK》の詳細を論じたい。
環境芸術におけるエア・アートとハプニング
「我S」の活動歴は《我S DISK》の前後でゆるやかに二分できそうだ。デビュー作《In Play》(1969)は愛知県美術館の一室を6万個の風船でいっぱいにした。この作品から「現代美術野外フェスティバル」(1970、神奈川こどもの国)での無数の風鈴を木々に吊るす作品まで、多くが軽い素材によって空間を満たし、観客をとりまく空間の広がりや状態を意識させた。このころに情報システムへの介入も始まっていた。《テレビ塔パフォーマンス》(1969)では、メンバーが名古屋のテレビ塔前に並び、右手を伸ばして指で塔を指した。当日、市内で朝日新聞社と全日写連が主催する撮影会が開かれた。その参加者が「我S」のパフォーマンスを撮影した写真が金賞をとり、後日『朝日新聞』に掲載された。
《我S DISK》以後は情報システム、流通システムへの大がかりな介入が目立つ。《週刊週刊誌》(1971)は、表紙以外の140ページすべてが白紙であるものの、版型、紙質、製本などは一般誌と同様の週刊誌を発行した。毎週1100部が1冊70円で半年間、24号まで書店や週刊誌スタンドで委託販売された。毎号4割ほどが売れたという。《スカラ座人形設置》(1973)は、名古屋のある映画館で定員1000名の座席の両翼500席を買い占め、すべてに服を着た空気人形を座らせた。最後の作品となった《人形参院選》(1974)は、参議院議員通常選挙の投票日前日、公園に服を着た空気人形を数百体を立たせ、選挙カーから政見放送のコラージュを流した。これらの作品で「我S」はシステム──レコード会社、出版社、映画館、政治家──の側のふるまいを倣った。
《我S DISK》以前の作品には当時「エア・アート」と呼ばれた動向との共通性がある。69年6月の『美術手帖』エア・アート特集は、「グループ・ゼロ」のオットー・ピーネ、クリスト、磯辺行久らによる巨大な風船やパラシュートを用いた作品を取りあげた•11。中原佑介はこの特集で、ピーネにとって空気は光、音とともに、空間の状態に関わるものだと論じた•12。この議論は中原自身の環境芸術論を思わせる•13。彼によれば、環境芸術とは人間を包みこむ、分解できない動的な状態としての環境を意識させる作品である。また、環境芸術は人間と環境のあいだの相互作用を表現する。中原にとって、こうした環境のモデルは大量生産品とマスメディアに満ちた大戦後の都市のありかただった。彼はさらに、環境と人間の相互作用において人間の行為のほうに力点をおいた作品が「ハプニング」であると論じた。
中原のこうした環境芸術論は、《我S DISK》以前の「我S」の作品によく当てはまる。《In Play》の風船は会場を満たすとともに観客の作品への参加をうながした•14。《Conventionからの出発》(1970)はメンバーの自宅から長さ100メートルのビニール風船を10本突き出させ、発光させた。「現代美術野外フェスティバル」では音が作品だった。《テレビ塔パフォーマンス》はテレビ、写真、新聞といったメディアが一体となり、都市で暮らす人々を包みこんでいることを意識させた。こうしたハプニング色の強い環境芸術から出発した「我S」は、なぜ情報、流通システムへの介入に進んだのか。
変化する情報システムのなかで
日本における環境芸術の流行のきっかけとされる展覧会「空間から環境へ」が開催されたのは1966年だった。60年代後半を通じて、高度経済成長の頂点を迎えた日本社会のなかで、中原がモデルとした都市のありかたは変化していった。情報システムに絞って見てみよう。60年代前半に普及したテレビはマスメディアの中心になり、朝から深夜までの生活のスケジュールや、政治の動向を左右するようになった•15。例えば、テレビの選挙放送が活発になったのは68年の参院選だった。他方、テレビに対する批判が増えだし、「テレビ離れ」も生じた。ラジオの深夜放送が若者に流行し、またマスメディアとは異なる志向をもつメディア──ミニコミ、アマチュア映画、ヴィデオ、自主制作レコードなど──が成長した。60年代後半のメディアはより影響力を増しながら、一体ではなくなっていった。
黒ダライ児は60年代末のハプニングとメディアの関係をこう論じる。
中原はマスメディアに満ちた都市のありかたを環境芸術における環境のモデルとし、ハプニングを環境と人間の相互作用において人間のほうに力点をおいたものとみなした。しかし、60年代末のハプニングではこの力点が環境のほうに引き寄せられたと言えるだろう。テレビの「やらせ」も変化していた。例えば、山下洋輔が早稲田大学学生運動のバリケードのなかで演奏する姿をとらえたドキュメンタリー「バリケードの中のジャズ──ゲバ学生対モーレツピアニスト」(東京12チャンネル、1969)において、学生と山下をけしかけて演奏を実現させたのは番組ディレクターの田原総一朗だった•17。このころ、メディアが個人に介入して新たな現実をつくりだす方法が登場した。
《我S DISK》以後の「我S」は以上のような変化に応じたように見える。影響力をより強めながら一体感を失っていくメディアは空間を満たす気体では表現できなくなり、個人とメディアの関係もシンプルな対比ではとらえられなくなった。60年代にも前衛パフォーマンスはメディアをPRに使うだけでなく、上映会やテレビ番組に介入した•18。それに対して「我S」は、メディアを通じて活動を発信するのではなく、自らがメディアの送り手となり作品を流通させた。そうすることで、彼らは個人とメディア、パーソナルとマス、人間と環境という対比自体を撹乱しようとしたのではないか。
彼らが流通システムへの介入を通じて個人とメディアの関わりを問い直したことと、《週刊週刊誌》の白紙には、同じような意図があったと考えられる。この雑誌の創刊号に書かれた文章の一部を引用しよう。
同じ文章の別の言葉を使えば、彼らがつくろうとしたのは、個人が情報の氾濫なかで白紙を前にし、「日常の時間をしばらく凍結させ、沈黙の世界に回帰」することを通じて、主体的に情報を選択する機会だった。そして、《我S DISK》以降の情報システムに対する介入も、それまでの個人とメディアという対比からいったん離れることで、あらためて個人の主体のありかたを問おうとしたのではないか。
「我S」はたくさんの空気人形を用いた《スカラ座人形設置》と《人形参院選》でも、ユーモアを交えてシステムのなかに空白をつくりだそうとした。選挙はいわば個人が政治的選択を表現するメディアであり、先にふれたとおり、60年代末にテレビの影響を受けたシステムだった。両作品の観客は自分が空気人形のひとつか、空気人形に囲まれた少数派になったように感じただろう。これらは個人対メディア、パフォーマー対システムという関係を混乱させることで、観客に自発的な思考をうながした。角田が言うとおり、白紙や空気人形があらわす空虚は、経済成長の果てに共有できる価値観を失った個人と社会に応じていたことはたしかだろう。だがそれだけでなく、影響力を増すメディアに囲まれた個人が主体性を取り戻すための一時的な隙間、緩衝材、防音材でもあった。
オンエアされた空虚
もし《我S DISK》が《週刊週刊誌》の後に制作されたら、気体の音や沈黙が収録されたかもしれない。このレコードはおそらく「我S」の後期の活動を模索する機会だった。「我Sのテーマ」と「ぷろー」のムシ声は、ザ・フォーク・クルセダーズ「帰って来たヨッパライ」(1967)以後、ザ・ダーツ「ケメ子の歌」(1968)など、グループサウンズのコミックソングの常套手段だった。そのせいか、当時のリスナーは4つの収録曲を奇抜ではなく素朴な歌と感じたようだ•19。しかし、どの歌もそれぞれの仕方で空虚と結びついている。
「我Sのテーマ」と「ぷろー」のムシ声には「ヨッパライ」の死者の声や「ケメ子」の女性の声といった意味はない。「ぷろー」は「我Sのテーマ」の速度を上げた部分を元に戻し、全体の速度を少し上げて、再生時間を揃えている。両者の関係はデモ盤を聞くとわかりやすい。デモ盤の「我Sのテーマ」はおおよそ、通常盤の「我Sのテーマ」の速度を上げた部分を元に戻したもの、通常盤「ぷろー」全体の速度を少し下げたものであり、2つの曲のオリジナルである。そして、デモ盤の「ぷろー」はデモ盤の「我Sのテーマ」を速度を、通常盤よりさらに上げてつくられた。つまり、デモ盤は「我Sのテーマ」のオリジナルとバリエーションが入っているのに対して、通常盤は2つのバリエーションしか収録されていない。したがって、通常盤の「我Sのテーマ」と「ぷろー」は正体不明の匿名集団のテーマソングらしく、オリジナルの不在を示唆するのではないか。《我S DISK》の販促ポスターには男性のバストショットのシルエットだけが写っていた•20。
とぼけた味わいのある「うた」の歌詞は、一般的に感情や状況のメタファーとして使われる風景描写だけで構成されている。「たかい山」という歌詞はたいてい目標の困難さなどをあらわすが、この曲の山はただ高く、鳥はただ空を飛び、風はただ吹いてる。そのため、ここにも重要なものを欠いた空虚感が漂っている。ドラマ仕立ての「悲恋」が喪失の歌であることは言うまでもない。女性は本当の気持ちを語ることなく、すべて終わったと告げて男性の元を去る。急な別れの理由も経緯も歌われない。男性の苦しみ以外に残ったのは羽毛、消えていく音、風である。これらは《我S DISK》以前の活動には馴染みのモチーフである。
「我S」が気体のイメージと結びつけて表現した空虚はもともと彼ら自身の内にあった。メンバーの加藤久勝は「当時、グループ展や個展をやっても、どんどん”展覧会ごっこ”になっていくような、虚しさがあった」と語った•21。この虚しさが「我S」の活動の前面にあらわれてきたのは《我S DISK》からだった。「うた」や「悲恋」は、彼らが抱えていた美術家としての虚しさの表現ともとれる。しかし、彼らが内なる空虚をシステムのなかに持ちこみ、主体的な選択の機会にしようとしたことが何より重要である。