「ぷろだくしょん我S」──虚構の時代の空虚な美術
角田美奈子
筆者は、名古屋市美術館の所蔵作家であり、名古屋の戦後を代表する現代美術作家の久野真や庄司達の活動を知ることを通して「我S」を知り•1、担当する特別展で名古屋市美術館が立地する白川公園で過去に行われた美術催事を紹介するため•2、「我S」についても調査をはじめようとしていたころ、名古屋のギャラリーセラーで「我S」の個展が開催されて、作品の一部と資料を実際に目にすることができた。この度の展示は、セラーでの個展に「我S」再考の必要性をあらためて感じたことが契機となっている。
セラーでは、高岳仁が「ぷろだくしょん我Sについて」という「我S」の活動をはじめて概括するテキストを残した•3。また、高橋綾子が、セラーの個展を後付けするように、芸術批評誌『リア』に「『ぷろだくしょん我S』におけるポスト反芸術」というテキストを発表している•4。高橋のテキストは、行動歴の一覧を含めて、「我S」研究の基礎文献となるものだ。本展では、これを参照しつつ、展示に使用した元資料やその他の傍証から可能なかぎりの確認作業を行い、いくつかある誤りを正すように努めた•5。
山田彊一の『名古屋力アート編』(2007年)にも同じ世代の作家が見た「我S」の活動の様子と評価が記されている。山田は、事務局を務めた「針生一郎が選んだ愛知60年代の現代美術展」で「我S」の《In play》を再現する展示を行った•6。
名古屋ではこのような動きがあったが、黒ダライ児が『肉体のアナーキズム』において時代を通観した全国的な視野から「我S」に触れ•7、郷土の美術の枠を超えた視点からの再考が可能になった。
「ぷろだくしょん我S」は、伊藤信也(いとうのぶや、1945–)、加藤久勝(かとうひさかつ、1944–2012)、加藤靖男(かとうやすお、1944–)、川合英治(かわいえいじ、1944–)、河合和(かわいやまと、1945–2017)、小出克一(こいでかついち、1944–)、冨田秀数(とみたひでかず、1944–2004)•8、日沖隆(ひおきたかし、1945-)の8名によって1969年に結成された。彼らのうち、河合と小出を除く6名は愛知教育大学の美術科を卒業している。河合は同じく愛教大の理科の卒業•9、小出は三重県立大学の水産学部卒業である•10。
伊藤、加藤(久)、川合の3名は愛教大の在学中から「濫濫展(らんらんてん)」の名称で3人展を開催し、日沖、加藤(靖)、冨田の3名もまた「阿吽展(あうんてん)」の名称で同大在学中から3人展を開催していた•11。彼らはグループごとに同じ年に卒業しており、「濫濫展」メンバーの1年後に「阿吽展」メンバーがつづいた。河合と小出は、「阿吽展」メンバーと同じ1968年の卒業である。
河合と小出が手がけていた8ミリ映像《穴》の撮影をきっかけとして、学生時代から交流のあった彼らが合流して活動をはじめたのが、「我S」である。彼らは、代表者を持たず、メンバーの名前も明らかにしないことを原則として活動したが、ひとりではできないことも、複数の人間が集まれば誰かができ、内容や規模もより大きなものができるという思いから共同での活動が行われた。誰かが言い出したアイデアを議論し、議論を通してそれぞれがそれぞれに得た考えのもとに協力して、ひとつのことを実行するというスタイルが取られた。
名称の「ぷろだくしょん」は、映画製作に代表される製作集団としての「プロダクション」が意識されている。「我S」は、独立した自我の持ち主である個人の集まりとしての「我」の複数形である。加藤(久)によれば、「ぷろだくしょん我‘S」が正式な表記だというが、倒立したアポストロフィを「我」と「S」のあいだに入れることで、ありきたりの表記になることを避けたという。「プロダクション」がひらがな表記であるのも同じ理由だろう。「我S」には、皆を抱え込む屁のようなイメージとしての「ガス」という意味も込められている•11。個人としての自己表現ではないものというイメージが、「ガス」という言葉で象徴されている•13。
1966(昭和41)年に愛知県立芸術大学が創立されるまで、芸術大学のなかったこの地域では、美術を学ぶためには教育学部系の美術科に進学する必要があった。美術家としての意識が強い同卒の6名に対して、専攻の異なる河合と小出は、活動に美術の枠組みにとらわれない発想と行動をもたらす存在であったようである。「我S」は、映像やレコード、週刊誌といった当時一般に普及しはじめた媒体を用いて表現活動を行ったが、それらは当時、一般はもとより、専門家のあいだでも美術表現の手法としては認められていなかった。これらを用いた背景には、美術かどうかはともかくとして、自分たちがやりたいこと、おもしろいと思うことをやれば良いという考えを強く押し出せる存在や雰囲気があったということだろう。
彼らは、小中学校や高校大学の教師、会社員などの仕事を持ちながら「我S」の活動を5年にわたって行い、30歳を迎えるのを機に1974年に活動を休止した•14。
「我S」は、代表者を作らず、メンバーの名前も明らかにしないで活動を行った。彼らには、大衆としての個人が自我をいやおうなく喪失させられていく時代のなかで、無名の個人が個人として連携しながら何かを成し遂げつつ、自我を保ちつづけるという、現実にはそうであることが難しい状況についてのそれを必要とすることへの自覚があった。こうした自我のあり方は、彼らに先んじた60年安保の市民活動に見いだせるものであり、彼らと同世代の若者が中心を担った70年前後の学生運動においても問われるべき重要な問題だった。「我S」の活動のあり方はその課題を実践するものだったのであり、行為を通して受け手である私たちに伝えたかったものでもあった。《In play》《週刊週刊誌》《スカラ座人形占拠》《人形参議院選》は、いずれもが私たちの自我のありようを問うものであったと見ることができる。
《In play》で用いられた風船は、からっぽな私たちの頭を象徴するものだろう。からだがすっぽりと覆われてしまうほどの多数の風船は、人口増にあえぐ都会の人混みや大衆の隠喩であり、マスコミが流す情報や因習によって自分自身の主体的な思考や判断を停止してしまっている私たちを表している。おもしろいことがしたい、自分たちを含めて見る人を驚かせたいという思いで彼らは活動した•15が、確かに、風船の海に浸かり、風で逃げ去る風船を追いかけて割りつぶす体験は無邪気に楽しく、爽快な気分をもたらしただろうが、それについても人々のなかに抱え込まれた屈折したエネルギーを解き放つ野蛮で残酷な行為と見られなくもない。彼らにはそのとき自覚はなかっただろうが、みずからがみずからの流れ漂うからっぽな頭を打ち砕くという皮肉な状況が、ここでは軽やかな楽しげな外見のもとに作りだされている。
河合は、筆者との会話のなかで、《人形参議院選》で使用した選挙演説テープの切り貼り作業を通して、選挙演説がいかに中身のないものかを感じとり、元の状態と切り貼りしたあとの状態に意味的に何の変化も生じなかったことに驚きを感じたと話していた•16が、《人形参議院選》で用いられた空気人形もまた、風船と同じく主体性のない空虚な私たちを象徴するものだろう。《スカラ座人形占拠》は、《人形参議院選》とは異なり、政治性のない、人を驚かすことだけを目的としたものと見ることもできるだろうが、はたしてそうなのか。当時斜陽を極め、観客減に泣いた映画館の、その衰退を招いた原因はテレビの普及である。テレビの普及は「一億総白痴化」を招くと評論された•17が、映画もまた久しく低俗な娯楽と見なされていた。今ならゲームがそれに匹敵するのだろうが、映画やテレビのメディア表現が私たち視聴者の判断力を奪うという危惧は、《週刊週刊誌》で表現の手段として用いられた週刊誌にも当てはまる。《週刊週刊誌》が「主体の獲得」を意図した行為であることは、「発刊企画の説明」に明らかだが、「我S」はここでも、からっぽな空気人形と相席して映画を見るという体験を通して、私たちに私たちが無批判に映画に向きあう自我を喪失した存在であると気づかせようとしている•18。《In play》からはじまった「主体性の獲得」という主題は、彼らの活動を通して一貫して保たれている。
ふわふわとして軽い風船や圧迫感のない空気人形を用いて、親しみやすさと滑稽さを醸しだしながら、主体を喪失した空虚な私たちを映しだす「我S」の表現は、見方を変えたとき、肝の冷えるような感覚をもたらす。その凍るような感覚をおそれ、自己の再生へと向けた主体の獲得が目指されていた。それが「我S」の試みの本質ではないだろうか。
「我S」が活動した期間は、世の中が根底から覆されるような出来事がつづいた時代である。若者は革命を目指して戦かったが、それは、体制を根幹から作り直そうとするものだったし、ドルショックや日中国交回復などは、現実の体制が不動のものではなく、人為によって組織された可変のものであることを実感を持って体験させた。現実の社会が虚構であることを感じ取った時代に、社会と同様の空虚な自我を見出した世代が行った表現が「我S」の行為だったのである。《週刊週刊誌》が白紙からの出発を訴えるように、彼らの表現は、何もないからっぽな頭を象徴するとともに、無からの出発を期する希望を表すものでもあった。彼らの、真面目なのか不真面目なのかわからない、やけくそとも言えるような徹底したやり方は、絶望と希望の入り混じった割り切れぬ思いからもたらされているように感じられるのである。ただ、その行為の根底には、社会通念を一旦白紙にし、自我によってそれらを再編しようとする問題意識があったことは確かだろう•19。
「我S」の再考は、彼らの活動を評価するだけでなく、彼らの活動に影響した時代の意識を再考することでもある•20。絵画や彫刻など、作品として明確な物質としてのかたちを持つものは、調査や収集の対象になりやすく、展示も容易である。一方、「我S」や、彼らと同時代に行われた、行為をおもな手法とする表現は、物質としてのかたちを持たないために、調査や収集の対象となりにくく、そのため歴史化もされにくい。だが、美術館が美術をとり巻く出来事を記憶(=収集)し、再生(=展示)する装置であることからすれば、「我S」のような活動についてもが、その活動の対象となるべきだろう。「我S」の時代を含めて、名古屋の美術活動は、いまだ十分に調査研究がなされていないが、本展が、「我S」の再考を促すだけでなく、彼らの時代の美術やそれをとり巻く環境、そして美術館が担う役割についても思いを馳せる機会となるよう願っている。
「広場へ!」を「へ!」
「スカラ座人形設置」1973(昭和48)年6月2日(土)を3日
「人形参院選」1974(昭和49)年6月23日(日)を24日
としているが、展示資料で分かるように誤りである。
また、「歩行者天国テープカットハプニング」を1974(昭和49)年日程不詳としているが、1970(昭和45)年9月6日(日)と推定した。名古屋市長の杉戸清から声をかけられたというメンバーの記憶が確かなら、本山政雄に市長が交代した1973年より前となる。歩行者天国(正式には「日曜遊歩道」という)は、1970年9月6日から11月29日まで毎週日曜日に実施された。71年と72年にも4月から期間を限定して実施されたが、世間の耳目をもっとも集めたのは初回の70年である。初回は、名古屋市の広報紙「広報なごや」9月号(発行日は9月5日だが、実際にはもっと早く戸配されていたと思われる)の2~3面で日曜遊歩道が紹介されており、実施場所や開始時間の情報も手に入れやすかったと思われる。これらから上記日付を実施日として推定した。同日夜には、《映像会》が行われている。
加藤久勝によれば、市長役の冨田はモーニング、その他は略礼服を身につけて、歩行者天国の開始直前に栄交差点でテープカットを行い、次いで反対側の矢場町交差点で遊歩道を出るかたちで南向きにテープカットを行って姿を消したという。(2010年10月15日付筆者宛私信)
「この白さが虚しさが気になりませんか
あなたの手によって参加するページです」
と記されている。筆者は第1号を実見できていないが、第3号~6号(1970年3月、6月、8月、10月)、第8号(1971年3月)、第9号(1971年5月)、第14号(1972年4月)に同様の白紙頁がある。日沖は、『C&D』の白紙頁を見た記憶はないというが、同誌はこの地域の美術関係者のあいで関心を集めた1970年の愛知県立芸術大学の学生紛争(第5号、1970年8月)や愛知県美術館のゴミ撤去事件(第6号、1970年10月)について記事を掲出しており、ゴミ撤去事件に川合がかかわりをもっていたこともあり、何らかのかたちで彼らが見聞きする可能性があったのではないかと考えている。
《テレビ塔パフォーマンス》(1969年8月24日)が行われた名古屋テレビ塔は、前年に地上100メートルの展望バルコンを完成させている。前月の7月にはアメリカの宇宙船アポロ11号が月面着陸に成功し、宇宙への関心が高まった。空を指さす行為は、スーパーマンのキャッチ・フレーズ「空を見ろ!鳥だ!飛行機だ!いや、スーパーマンだ!」を思い出させる。
《我SDISK》に収録された楽曲には、メロドラマや子ども向けのヒーロー番組など、映画やテレビで用いられた音楽との類似性が指摘できる。加藤(久)によれば、「我S」にはテレビ塔に巨大な空気人形を取り付け、それを上下運動させるというアイデアがあったが、関係の許可が得られず、実現しなかったという。
《人形参議院選》には、三島由紀夫の自衛隊市ヶ谷駐屯地での演説の光景の虚しさが思い浮かぶ。