リーフレット 1-3


日本美術サウンドアーカイヴ試論 堀浩哉のパフォーマンスにみる、テクノロジーを介した「作ること」の問い直し

畠中実

「日本美術サウンドアーカイヴ──堀浩哉《MEMORY-PRACTICE (Reading-Affair)》1977年」リーフレット、2018年、5-6頁。



私が美術家・堀浩哉の存在を知ったのは大学に入学して間もなくのことだった。ちょうど多摩美術大学に入学した1987年に、多摩美術大学50周年文化事業として、西武美術館との共催で企画された、「もの派とポストもの派の展開―1969年以降の日本の美術」展(会期:1987年6月26日~7月19日)があり、当時はじめて実物を目にした関根伸夫や李禹煥や菅木志雄や吉田克朗ら「もの派」の伝説的な諸作品(の再制作)、そして同時代の「ポストもの派」の作品群に大きな衝撃を受けた。それは当時の日本現代美術の一様相を俯瞰することのできた、私にとっても非常に影響の大きい展覧会であった。カタログに掲載された東野芳明によるテキストからひけば、「[日本の]自爆につぐ自爆の連続であった戦後の美術に、内在的な弁証法的な歴史の運動が躍動し始めた徴候のひとつ」•1として、「もの派」とそこから展開された「ポストもの派」をとらえ、それが展覧会の副題である「1969年以降の日本の美術」の特徴であることを実証しようとするものであった。しかし、その展覧会がひとつの問題を含んでいるということも企画者から指摘されていた。それは、堀浩哉と彦坂尚嘉という、まさに「もの派」を批判的に受け止め「ポストもの派」への展開を行なったふたりの作家の不在であった。しかし、私にとってはその不在ゆえに(実際に作品を見ることではなしに)、「美術家共闘会議」というどこか物々しい名称とともにふたりの作家の存在が強く記憶されることになったのだった。その展覧会にない堀の作品を当時どのように知ったのかはあまり覚えていないが、おそらく美術手帖や千葉成夫の『現代美術逸脱史 1945~1985』によってだっただろう。そして、その3年後の1990年には、多摩美術大学芸術学科の学生によって毎年企画されていた展覧会「TAMAVIVANT ’90 あいまいな次元」の現場で、出品作家と学生という関係で、堀と直接知り合うことになる。その時点で堀は自身の絵画作品としての大きな成果のひとつである《風の声》シリーズを制作、展開している真最中だった。つまり、堀は画家としてのキャリアを確固なものとした存在だっだ。

堀が多摩美術大学に入学した1967年に仲間たちと行なった「自己埋葬儀式」というパフォーマンスが、自身の美術家としての活動の原点であるということは、しばしば本人から言及されている。一種、イニシエーションとしての、美術家であることの覚悟のようなものをパフォーマンスとして行なったものだった。その後、学生運動への参加と美術の制度性を問い直す運動体「美術家共闘会議」を立ち上げ、バリケードでの制作・展示や、1969年に発表された《鑑賞を拒否する》のような制度批判的な作品を発表する。そして、学生運動の失速とともに政治運動組織である「美術家共闘会議」は、1970年に表現者集団としての「美共闘REVOLUTION委員会」へと移行した。そこからはじまる堀の70年代を、堀は自身にとっての「絵画の前史」と位置づけている。美共闘の時からの「絵筆を折らないで闘う」という謂いにも表わされているように、当時から堀は自身が美術家であるという認識から出発し、「絵画そのものを成り立ちから検証しゼロから積み上げていく時間」•2と自身が言うように、絵画を希求しながら、絵画を成立させる制度を問い直し、いかにして絵画というものを組立て直すかが、この時期の(もちろん現在までも継続された)堀の問題であった。それは、1975年の《THREE PRIMARY COLORS-PRACTICE》のような、三原色をシルクスクリーンで順番を変えながら刷り重ねていく作品や、インクや墨を使って線を墨壷で幾重にも重ねながら、ある種の機械的な反復によって絵画の発生のようなものをつかみ取っていく作品に顕著に表れている。それによって、この時期のあらゆる制作は、帰納的に絵画へと収斂するための試行であったということも言えるだろう。

前述の千葉成夫『現代美術逸脱史』では、60年代後半、1970年の大阪万博へと向かうテクノロジー・アートの隆盛について、「環境芸術」をテクノロジーへと一元化する山口勝弘史観とは別の「環境芸術」史観を示しつつ、「テクノロジーそのものは美術ではなく、テクノロジーに頼るだけで美術たりうるわけではない」•3という認識を示した。それによって、『現代美術逸脱史』では、60年代後半に顕著であったテクノロジー・アートの動向を、あくまでも一過性の流行現象としてとらえ、日本の戦後美術史の中に位置づけそこねている。1969年に宮川淳は、「手の失権」と題したエッセイを書いている。それは、現代におけるテクノロジーの変質を「機械をテクノロジーのシンボルの座から追放しつつある」ものであるとし、電子テクノロジーの到来を「《芸術とテクノロジー》の問題に新しい様相を生み出す」ものととらえた。そして、「芸術における《つくる》という概念が有用性や生産力、さらには進歩としての《機械》と同時代的であったように、《見る》ことのクローズ・アップとテクノロジーそのものの変質とは同時代的なのである」と述べている•4。これは、マーシャル・マクルーハンが、自動車が足という身体機能の拡張であったのに対して、電子回路は中枢神経系の延長であると言ったような、機械の時代から電子の時代へ、というテクノロジーの転換をテクノロジー・アートの変化と重ねあわせてみせた、1968年にニューヨーク近代美術館で開催された展覧会『マシーン―機械時代の終わりに』(The Machine As Seen at the End of the Mechanical Age)のテーマとも符合する。またそれは、従来の芸術というものを支えていた手仕事が、テクノロジーによって代替されることが危惧された時代をあらわすものだが、宮川はそれらを「手」から「目」へ、「つくる」ことから「見る」ことへの転換であるとした。

60年代の後半は、70年の大阪万博へ向けての助走として、テクノロジー・アートが日本でも大きく取り上げられたが、一転して70年代は、万博が掲げた未来礼賛に対する疑念があらわれた時代でもあった。たとえば、「もの派」のような自然の、あるいは作られたままの素材を使用する、非テクノロジー志向の傾向を持つ動向が、日本の現代美術の主だった動向となっていく。李禹煥の言う「つくることの否定」とは、テクノロジーによってもたらされる「手の失権」に対する、作ることはテクノロジーによって代替可能であるが、人間は作らないことをできる、というリアクションであると解することもできるのではないか。しかし、一方で70年代とは、美術における電子テクノロジーの導入が、60年代のそれとは異なるかたちで導入された時代でもあった。「美共闘REVOLUTION委員会」が70年代前半において、さまざまにテクノロジーを使用した作品を制作していることも、そうした社会におけるテクノロジーの変化と重要な関係があると考えられる。阪本裕文は、「もの派と呼ばれた動きが広がることで、1970年頃には日本の美術は概念と物質に分離され、徹底した還元主義に至っていた」とし「、美共闘REVOLUTION委員会」についても、「芸術が解体に至った状況を受けて、制作することの前提から問い直さねばならなかった」と言及している。またそうした、70年代初頭からの映像表現について、「美術が媒体に留まらず、概念にまで至ったことから、多くの美術家らは芸術が芸術として成立するに至るまでの、関係性の成り立ちを追求するために映像を用いるようになった」と述べている•5。

堀は、1975年から77年にかけて、自身のもうひとつの「絵画の前史」であるというパフォーマンス作品において、ソニーの1/2インチやアカイの1/4インチオープンリールヴィデオレコーダーや、テープレコーダーといったテクノロジーを使用している。ヴィデオの使用について堀は、ヴィデオを使うことを前提としたものではなかったことをことわりながら、「二つの部屋の一方からもう一方へ、リアルタイムで情報を送りたいというコンセプトがあって、それをどうすればいいか考えているときに」誰かがヴィデオというメディアの存在を堀に教えたのだと言っている。堀がヴィデオを「リアルタイムのメディア」であると捉えていたことも、その後定着していくようになる、ビル・ヴィオラなどに代表される映像表現としてのヴィデオ・アートとの異同として大変興味深いが、そうしたシステムを介することによって生じる「主体のゆらぎ」のような感覚が発見されたことは、その後、堀が画家として再出発するための契機となる。曰く「見ることと見られること、そして行為することと見ること(あるいは読みとること)が全く等価で、いつもそのどちらでもある」、そんな感覚が、「再び絵画に立ち向かうための方法であり足場たりうる」という思いが、堀をいよいよ絵画へと向かわせることになる•6。しかし、一方で、いくつかのテクノロジーを使用した作品には、それらがたんに「絵画の前史」としてだけではない、絵画への収斂あるいは回帰にとどまらない意味が見出せるのではないかと、私は考えている(そして、日本美術サウンドアーカイヴの基本的な出発点もそこにある)。
(続く)


[註]
1|東野芳明「もの派とポストもの派の展開―関係者の随想」『もの派とポストもの派の展開―1969年以降の日本の美術』展カタログ、西武美術館、1987年、10頁。
2|堀浩哉「センスオブニューアート」『月刊 THIS IS』読売新聞社、1989年5月号。堀浩哉『滅びと再生の庭』現代企画室、2014年、352頁。
3|千葉成夫『現代美術逸脱史 1945~1985』晶文社、1986年、104-105頁。
4|宮川淳「手の失権―シンボルとしての機械と手工的な思考」『美術手帖』美術出版社、1969年2月号「特集:現代芸術とテクノロジー」。
5|阪本裕文「初期ビデオアートのメディアに対する批評性」『初期ビデオアート再考』展カタログ、初期ビデオアート再考実行委員会、2007年。
6|堀浩哉「自作解説」『ビデオ・新たな世界―そのメディアの可能性』展カタログ、O美術館、1992年。堀浩哉『滅びと再生の庭』現代企画室、2014年、398-399頁。

*また、70年代前半の絵画以前の活動については、多摩美術大学美術館「堀浩哉展―起源」(2014年)カタログ所収の筆者と土屋誠一による堀へのインタヴューに詳しい。