リーフレット 1-1


《Reading-Affair》──その成り立ちについての覚え書き

堀浩哉

「日本美術サウンドアーカイヴ──堀浩哉《MEMORY-PRACTICE (Reading-Affair)》1977年」リーフレット、2018年、1-2頁。



ぼくが初めて「パフォーマンス」らしきものを行ったのは、今から半世紀前の1967年、多摩美術大学に入学した19歳の年のことだった。《自己埋葬儀式》と題し、仲間を募って首のない白いドレスを着た人形を吊り下げて、東京駅から銀座一帯を葬列よろしく練り歩いた。

まだ「パフォーマンス」という言葉は使われていなくて、ハプニングやイベントや儀式などと称されていた時代だった。

美術大学に入ったばかりで、これからアーティストとして生きていくのだという、いわば決意表明の表現が「自己埋葬」という倒錯した形になったのは、後に全共闘運動の中で「自己否定」という言葉が、自分自身の依って立つ足元自体を疑えという意味で中心的なスローガンとなったことと、時代的に通底していただろう。

翌1968年には、日本を含めた世界のいくつもの国、地域で若者たちを中心に既成のシステムへの叛乱の狼煙が一斉に上がった。それぞれに固有の問題が出発点であったにせよ、軌を一にしたのは近代的国家そのものの内部に、近代というパラダイム自体の制度疲労が蓄積されていたからこそであり、それは近代の「終わりの始まり」を告げる狼煙だった。

ぼくらもまた時代の波とは無縁ではあり得ず、多摩美大固有の問題から闘争に参入していった。

69年初頭の「多摩美大全学闘争委員会」による第一次バリケード闘争に、ぼくら(当時ぼくが主宰していた劇団のメンバーや連携していた映画研究会のメンバーなど)は「思想集団存在」として理念的な声明文を掲げて参加したが、条件闘争に終止する当時の全闘委からは白眼視されたまま、結局バリケードは卒業式と入試を契機に解除。

あまりにも卑小で情けなかったその前後の経過やいきさつは一切はぶくが、ぼくにとってはその消耗戦の過程が、それまで全く未知だった闘争関係の多くのことを、短期間に学習する機会となった。

その経験が、入試後の本格的でかつ都内の大学で最終期まで持続したバリケード闘争と、その中から生まれた「美術家共闘会議(美共闘)」へと繋がっていったはずだ。

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その年の初夏に第二次バリケード闘争に突入した。どこの大学でも新左翼各派(セクト)が拠点を設けていて、多摩美も例外ではなく、本部棟と図書館はそれぞれ別のセクトが占拠し、ぼくらはノンセクトラジカルとして新館と当時称された棟を占拠した。

ぼくらは新館一階の窓ガラスやトイレを破壊し、二階へつながるすべての階段をバリケード封鎖して、出入りは二階テラスと梯子で繋いだ。メインの階段のバリケードの構造を支える基底材にはぼく自身の「作品」を使用した。

ぼくはその年の春に開催された毎日新聞社主催の「現代日本美術展」に《鑑賞を拒否する》という作品を出品して入選した(賞候補として、初めて東野芳明による新聞評にも取り上げられた)。

この公募展は当時新進作家の登竜門として権威があり、ぼくらは当然「美術権力機構」の一つとして「日展」などと同時にこの展覧会も「粉砕」の対象としていた。にもかかわらず、ぼくはそこへあえて出品していた。

ぼくは、権威的制度に対して「粉砕」を外から突きつけると同時に、その制度の内側に制作することそのものへの構造批判を内在した自らの「作品」を潜り込ませ突きつけるという、矛盾しているかもしれない二重性こそがぼくらの闘いであり、それこそが内なる制度に向き合う「作品」の強度を試される場なのだ、と思っていた。

その作品が、展覧会を終えて返ってきて、それがバリケードの基底材にピッタリだった。

約15cm角の太い角材を180×150cm大の木枠に組んで、麻布を垂らしたものが二点組になって、壁に立てかけられている。そんな《鑑賞を拒否する》と題された作品は、いわば自重で壁からずり落ちた「未成」のキャンバスのようでもあったが、その頑丈な木枠がバリケードの基底をみごとに支えてくれて、当時のぼくにはここまでやってこの「作品」がようやく完結した、と思えた。

「作品」が、作品でありながら非作品でもある、あるいは芸術でありながら非芸術でもあるという二重性を帯びることによって、ようやく何か自分のやりたいことが漠然とではありながら輪郭を得てきたような気がしたのだ。

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そんなバリケードの中での討議から、ぼくらは大学という枠も学生という枠も超えた「美共闘」を立ち上げた。スローガンとして「美術権力機構解体せよ」という分かりやすいものに加えて「文化的廃墟を創出せよ」という、かなり分かりにくい言葉を二本柱にしてうたった。

明治維新で移入された近代というパラダイムによる富国強兵、殖産興業策と、それに並行する洋画、日本画、工芸の国策としての推奨、それが敗戦後も変わらず近代合理主義として貫かれていて、それへのアンチテーゼであったはずの「前衛」もまた、万博に雪崩れ込んだ岡本太郎をはじめ「具体」や「もの派」までがすべて近代の補完勢力である近代非合理主義として、国家総動員的に絡めとられてしまった。

それらを共に葬り去った「廃墟」を「創出」し、その廃墟の中から芽生える若葉や実生にこそ、新たな表現の契機を見いだそうという、あまりにも性急で乱暴すぎるけれど、それが当時のぼくらの主張だった。

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1970年に、政治的な意味では敗北したぼくらはしかし「闘争」を(内面化することで)持続するために、1971年「美共闘REVOLUTION委員会」という表現者集団を立ち上げた。「美術権力機構」という美術の制度性は、実は制作する個々の作者の中にこそ深く内在しているのであり、その内なる制度をこそ打破していかなければ近代の「美術」は変わらない。ギリシャ由来の「制作」(Poiesis)概念を解体した廃墟の中から、ひとつひとつの「実践」(Practice)を積み上げることで制作すること自体を検証していく、そんな表現をこそぼくらは目指していた。

ぼくらは『美術史評』と『記録帯』という二つの機関誌を発行すると同時に、「美共闘REVOLUTION委員会」がプロデュースして各メンバーがディレクションするという形で、それぞれが美術館や画廊などの「美術の制度的な場所を使わない」という「個展」を開催した。

ぼくは渋谷にあったアンダーグラウンドの小劇場を会場にして、室内というシェルターを天井、壁、床それぞれの意味を相対化するインスタレーションを行った。

たとえば壁。それは外部を遮断すると同時に想像力を発生させて言葉を育む領域であり、だから壁にまつわる言葉を抽出したファイルを作り、それらのテキストを文節で区切ってその間にREVOLUTIONという言葉を差し挟んで(他のメンバーとのコラボレーションで)描くように書いた紙を貼り巡らした。いわば実際の壁を分節化された言葉の壁で覆い尽くした。

これが次に《Reading-Affair》へ繋がっていくことになる。

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第一次の「REVOLUTION委員会」の表現活動は一年間で終えて(機関誌発行はその後も持続)、翌1972年にぼくは「ACT展」と称する個展シリーズをやった。繰り返しになるけれどまだパフォーマンスという言葉はなくて、しかしそのニュアンスを込めたくての、このタイトルだったはず。

そのNo.2(No.1は欠番)では、画廊の壁の少し手前に仮設の壁の骨格のように木枠を張り巡らせ、その木枠にあの《鑑賞を拒否する》と同じように布を垂らした。いや、垂らそうとした。が、どこに垂らしても落ち着かない。収まる場所がない。どうにも決定できない。

そこで考えた。できないという不可能性こそが「今」という時代のリアルなのであり、ならばそれを引き受けて、できないこと自体を現在進行形の出来事に変えよう、と。そして、毎日何度も布を移動し続けた。

それが、ぼくにとって意識的なパフォーマンスの起源だった(最初の、形式としてはほぼ無意識だった儀式を別にすれば)。

No.3は、街の中の事務室の一室すべてを白い塗料で塗り、床には白い布を敷き詰め、部屋の中にはやはり白い机と椅子が一組あり、白装束に顔を白塗りした男がそこに座り本を朗読している。文節で区切り、文節と文節の間にはカセットテープレコーダーに吹き込んだREVOLUTIONという言葉が差し挟まれる。早朝から深夜まで、それが延々とつづく。

それがパフォーマンスとしての《Reading-Affair》(正確には《MEMORY-PRACTICE(Reading-Affair)》)の始まりだった。

その後1974年の「一年間、制作も発表も中止する」という第二次「REVOLUTION委員会」の「活動」期間をはさんで、様々なタイプの作品を試みたが、《Reading-Affair》の要素はタイトルこそ違っても、いくつかの作品に変奏曲のように見え隠れしていた。

ぼくがその当時やろうとしていたのは、近代が育んできた「形式」や「概念」や「文脈」や「物語」を解体し、しかしただコンセプチァルに解体するのではなく、その解体しつつある廃墟そのものの中に密かに見える艶かしい実相をこそ現前させたいという想いだった。

それは絵画という「制度」を解体しながら絵画の再生を熱望する実践であったり、人々の仕草という「日常」や様々なテキストという「物語」を分節化し、解体しながら、その意味を剥奪された動きや言葉などが重なっていくノイズの中に潜む、制度や日常や物語などの「文脈」とは別の(オルタナティブな)豊穣さを聞き取ろうという実践だった、はずだ。

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1977年、ぼくは「パリ青年ビエンナーレ」に参加した。日本の推薦者はたにあらた(谷新)で、さらに国際審査を経ての参加だった。その年パリビエンナーレではパフォーマンス部門が新設されて、ぼくはマリーナ・アブラモヴィッチらとともに、その部門に選ばれた。パフォーマンスという言葉自体を、ぼくはそのとき初めて知った。

ぼくの作品は《Dancing-Affair》(正確には《MEMORY-PRACTICE(Dancing-Affair)》)という、ビデオシステムを介在して二人の人間の仕草が相互に「見る」-「見られる」ことを繰り返すことで解体していく、というパフォーマンスだった。

しかし、それはオーディトリウムでの決められた日にしか発表できないことになっていた。そこでオープニングの日に、廊下の一部に適当な場所を見つけて、勝手に72年の《Reading-Affair》を再演した(もちろん仏語で)。ただしこのときはオープンリールのテープレコーダーを2台使用して、録音と再生を少しの時差で繰り返すことによるハウリングで、言葉はほとんどノイズと化してしまうというものだった。

それは「非合法」な行為だったにもかかわらず、セレブやプレスを案内して巡回してきた総合ディレクターのジョルジュ・ブダイユはぼくにウインクして拍手し、次に述べる催しにぼくを推薦してくれもした。

初めてのパフォーマンス部門は鮮烈な印象を与えたようで、ヨーロッパ各地からいくつかのオファーがあったが、その最初がビエンナーレ開催後すぐにパリのファリデ・カド・ギャラリーが急遽企画した「パフォーマンス週間」という催しで、ビエンナーレに参加している作家の中から、ブダイユ推薦の作家が日替わりでパフォーマンスをやるというものだった。

ここでも《Reading-Affair》を上演したが、言葉は、文節からさらに一音ずつにまで切断され、また二人のパフォーマーが交互に発語することで、言葉は完全に分解してしまった。

そのパリで、しかしぼくは「ぼくらの廃墟の時代」は終わった、と感じた。

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1998年、封印から21年目にパフォーマンスを再開した。

きっかけは「AIR空気」展という美共闘のオリジナルメンバー4人(石内都、彦坂尚嘉、堀浩哉、宮本隆司)による活動だった。AIRはArtIntheRuinsで「廃墟の中の美術」を再検証するという意味が込められていた。

翌99年まで4回行ったこの展覧会で、ぼくは21年前に封印したパフォーマンスの最後の作品、あのパリのギャラリーでの《Reading-Affair》の新作を上演した。

オープンリールのテープレコーダー2台を使ったシステムは同じだが、使用するテキストが変わった。

かつてはパフォーマーがたまたま読んでいた任意の本や当日の新聞だったテキストを、98年版では72年の連合赤軍派による同志連続殺害、89年のオウム真理教による坂本弁護士一家殺害、97年の酒鬼薔薇聖斗による連続児童殺傷という3つの事件の殺害者の供述調書をテキストとした。ぼくにとってそれらはどれも、自分が生きてきた時代を象徴するものとして、深く心に刻まれた事件だった。

さらに、かつてはパフォーマーを他者に任せて、ぼくはビデオカメラやテープレコーダーを操作する「メディア」の位置にいたのに対して、再開後はぼく自身がパフォーマーになった。

それはたぶん、かつては文脈や物語を解体して「廃墟」を「創出」しようとしたのに対して、21年を経て再開した98年版以降はただの再開ではなく、「廃墟」からの「再生」を求めるように、希求するベクトルが変わったからだろう。もちろん「再生」はあくまでも希求であり、様々な「廃墟」をこそ見つめ続ける意志に変わりはないのだが。

98年にパフォーマンスを再開すると同時に、ぼくらは「ユニット00」を立ち上げた。メンバーは1975年から77年までの《Dancing-Affair》のパフォーマーで事実上の共作者でもあり、それ以降も常に恊働を続けてきた妻の堀えりぜと、90年代初頭からしばらくぼくの制作アシスタントを勤めてくれた畠中実と、ぼくの3人。

ユニットはぼくの絵画以外のパフォーマンスを含めたすべての作品の「制作主体」として、多くの若者たちや地域の住民の人々とコラボレートしながら、さまざまな活動を行ってきた。

そして東日本大震災以降の近年は、改めてユニット「堀浩哉+堀えりぜ」としてパフォーマンスやインスタレーションなどの活動を続けている。