奇妙な認識論──倉重光則の1974年の七つのパフォーマンス
金子智太郎
※図版は省略しています。
倉重の73年から74年までの活動はこれまで不正確にしか記録されず、またほとんど資料に即した考察はされてこなかった•3。そこで、私は倉重の協力を得て残された写真と書類をもとに当時の活動を再構成することから始めた•4。倉重に半世紀ほど前の記憶をたどっていただいたものの、不確かな点も少なくない。そこで、ここでは現段階の推測を交えて記述することにし、明確でない部分はそのことを記した。倉重の長年の活動と70年代の日本美術をふりかえるために、まずはできることから始めたい。
解放の後のノイズ
倉重は蛍光灯を用いた70年代はじめの作品を「物質主義的エクスタジー」または「物質に対する暗黙の内に始められる透明化へのゲーム」と名付けた。「エクスタジー」は魂が肉体の外に出ることを意味する。「透明化」するのは物質と向きあう観客である。つまり、これらのタイトルは物質そのものとしての作品と、主観を排して物質と向きあう観客の関係を意味した。倉重が68年に蛍光灯に関心をもったのは、その光が新聞紙の文字を白く消すのを見たからだという。美術評論家の菅原敦夫は、学生運動の高まりとともに既成の美術制度に対する疑念が深まったこの年に、倉重は白い光に自己の解放を感じたのだろうと論じた•5。以後、自己を消して透明な精神となり、物質と対峙することが倉重の創作の姿勢となった。
68年以降、日本の経済成長は失速し、学生運動は過激化の末に終息した。72年には同世代の活動家が凄惨な事件を起こした。そうした状況のなかで、倉重は作品に観客の意識をかき乱すような要素を取り入れだした。72年10月からのグループ展「今日の作家 ’72年展」(横浜市民ギャラリー)の作品では、むき出しのスピーカーユニットを壁面に付け、下に置いたカセットデッキで海の音を再生した•6。壁面やまわりの床には蛍光灯や鉄のオブジェを置いた。さらに、その脇にステレオを置き、観客がビートルズなどのレコードを自由にかけられるようにした。これらの音は精神と物質の間にノイズとして割りこんでくるものだったと考えられる。しかし、倉重はこのときまだ自分が何を問うているのかを十分に理解していなかったという。
73年3月に田村画廊で開催された個展「OTOBAI」では、会場の床一面にグリースを塗り、奥に発電機と沃素灯(ハロゲンランプ)を置き、観客が入れるようにいくつかの鉄板の足場を敷いた。沃素灯の熱でグリースから煙が出て、部屋に充満した。さらに、会期中毎晩、画廊のまわりを回るようにオートバイを走らせ、街中に発煙筒の赤い煙を漂わせようとした。しかし、オートバイはすぐに警官に止められた。画廊を訪れた警官はたちこめる煙を見て、沃素灯を消させた。煙、臭い、騒音、そして社会と、さまざまなノイズが作品のなかに入りこんだ。
トラブルが続いた「OTOBAI」の後、倉重はいったん佐賀市の実家に戻り、東京と佐賀を往復する生活を続けた。73年の夏には実家やその工場で、撮影役の友人だけを前にいくつものパフォーマンスを行った。写真が残っているのは次のようなパフォーマンスである──ドリルで電球を破壊する(fig.1)、かけたままのサングラスをドリルで破壊する(fig.2)、ドリルで本に穴を空ける(fig.3)、身体に電流を流す(fig.4)、音楽を聞く(fig.5)、本をさかさまに読む(fig.6)•7。最後の二つは田村画廊でのパフォーマンスの原型だろう。また、同時期に湘南海岸でパフォーマンス《目と耳をふさぎ、そして海を想像する》が行われた(fig.7)•8。倉重がこれら70年代前半のパフォーマンスの意図を語ったのは近年のことだった。その言葉について考える前に、72年から続く苦悩に育まれた成果と言うべき、本論考の冒頭でふれた展示を見ておく。
田村画廊での1974年の個展における七つのパフォーマンス
倉重は田村画廊で1974年8月5日から11日まで開催した個展において七つのパフォーマンスを行った。パフォーマンスに使用する道具すべてが会場に展示され、パフォーマンスのインストラクションを書いた紙も掲示された。インストラクションの文章は展示中に何度も修正され、紙が貼り直された。さらに、展示には複数のテープレコーダーが置かれ、海の音などを再生したようだ。パフォーマンスはおそらく午後5時に始まり閉廊時間の7時まで行われた。
パフォーマンスの日付、タイトル、道具、インストラクションは次のとおりである。記録に残されたタイトルとインストラクションは複数のヴァージョンがあるものの、私が便宜的にひとつに再構成した。そのさい送り仮名を正したり、読点を挿入したりした。
8月5日 《鏡を見る》(fig.8) 鏡
8月6日 《画廊壁面の一部分をなでる》•9(fig.9) ガムテープ
8月7日 《本をさかさまに読む》•10 本
8月8日 《ひそみ、そしてかまえる》 板、ダンボール(fig.10)
8月9日 《自分と同じ長さくらいの物体をならべ、それと平行に横になる行為》 枕木、シート(fig.11)
8月10日 《目と耳をふうじる》•11 安眠マスク、ガムテープ、粘土、耳栓(fig.12)
8月11日 《音楽を聞く》 音楽、テープレコーダー、カセットテープ(fig.13)
当時、この展覧会について美術評論家の平井亮一と谷新が展評を書いた•12。谷はこの展示をごくプライベートな問題提起と考えた上で、行為が重視されているのにその意味が見えてこないこと、行為の残骸である物質が最初に見えてくることに疑問をもった。平井は谷の問いに応じて、この展示は観客に行為の追体験を誘い、観客の非日常的な知覚を活性化するのではないかと論じた。また、観客に追体験を誘うことを「代行性」と表現した。
奇妙な認識論
倉重は2015年6月末に谷新から手紙を受けとった。倉重が瀬戸内芸術祭に出品した作品の詳細についての問い合わせだった。手紙には先の展評のコピーが同封されていた。返信のなかで、倉重は70年代前半の活動をふりかえった。
彼はまず68年から72年までについてこう述べた。
自我を消して物質と向きあうという倉重の姿勢は、物質そのものとしての作品と、物質をそのまま受けとる精神を想定した。この関係を反転させて作品の制作に当てはめれば、精神のなかのイメージと、イメージをそのまま再現する作品という関係になる。彼はこうした想定に次第に疑問を抱いていった。
先の引用に続き、彼は「1973年〜1974年はまさに私にとって転換期であったように思います」と書き、1974年の個展についてこう語った。
倉重は「この社会や現実に参加する」ために、物質と精神の間にあるもの──感覚、感情、記憶、身体、言語、道具など──が、どのように両者のあいだに入りこむのかを確かめる必要があった。そのために実行されたパフォーマンスは、観客にとってだけでなく倉重にとっても行為を追体験するための「代行」だった。実際に狭い空間で身がまえなくても、音楽が喚起する記憶にあらがわなくても、これらを追体験できるように上演されたのだ。
この時期に倉重は精神と物質、主体と客体、認識と感性をめぐる多くの著作を読み、ノートをとった。75年10月に『エピステーメー』創刊号が出版されたとき、自分と「同じような思考を持った人たちがいる」と感じたという。美術家になろうと考えることをやめた時期も、倉重は自らの認識論を手にするために格闘した。しかし、彼はその結晶とも言うべき74年のパフォーマンスが笑いをさそう奇妙なものだとも思っていた。倉重は谷への手紙に老子の言葉を引用した。「笑われないようなものには道としての価値がない。我々は冗談を理解した瞬間、悟りを体験する」•14。
[図版]
fig.1 ドリルで電球を破壊する 1973年
fig.2 かけたままのサングラスをドリルで破壊する 1973年
fig.3 ドリルで本に穴を空ける 1973年
fig.4 身体に電流を流す 1973年
fig.5 音楽を聞く 1973年
fig.6 本をさかさまに読む 1973年
fig.7 《目と耳をふさぎ、そして海を想像する》 1973年ごろ 安眠マスク、ガムテープ、粘土、耳栓 湘南海岸
fig.8 《鏡を見る》 1974年 鏡 田村画廊
fig.9 《画廊壁面の一部分をなでる》 1974年 ガムテープ 田村画廊
fig.10 《ひそみ、そしてかまえる》 1974年 板、ダンボール 田村画廊
fig.11 《自分と同じ長さくらいの物体をならべ、それと平行に横になる行為》 1974年 枕木、シート 田村画廊
fig.12 《目と耳をふうじる》 1974年 安眠マスク、ガムテープ、粘土、耳栓 田村画廊
fig.13 《音楽を聞く》 1974年 音楽、テープレコーダー、カセットテープ 田村画廊