展覧会カタログ 1


奇妙な認識論──倉重光則の1974年の七つのパフォーマンス

金子智太郎

『倉重光則+天野純治展 ミニマリズムのゆくえ』展覧会カタログ、横須賀美術館、2020年、18-24頁。
※図版は省略しています。



倉重光則は1974年に田村画廊で毎日ひとつ、計七つのパフォーマンスを行った。どれもひとつの行為を続ける一連のパフォーマンスは、鏡を見ることにはじまり、音楽を聞くことで終わった。このころ彼は美術家になろうと考えることを止めたという•1。46年生まれの彼は68年に最初の個展を開催し、さらに日本大学芸術学部出身の若手美術家が結成したグループ「APPLE IN SPACE」のメンバーとして活動をはじめた•2。倉重のトレードマークである蛍光灯を用いた作品は70年から発表され、注目を集めた。71年、72年にかけて多くの個展やグループ展で蛍光灯のバリエーションが展示された。しかし、この初期の精力的な活動は長続きしなかった。本論考は彼にとっての苦悩の時期に開催された74年の個展を中心に、彼の表現がこの時期にいかに変化したのかを検討する。私の考えでは、倉重の75年以降のヴィデオを使用する作品やそれ以降の蛍光灯を再び用いた活動について考えるためには、この時期の活動が重要な手がかりとなるだろう。

倉重の73年から74年までの活動はこれまで不正確にしか記録されず、またほとんど資料に即した考察はされてこなかった•3。そこで、私は倉重の協力を得て残された写真と書類をもとに当時の活動を再構成することから始めた•4。倉重に半世紀ほど前の記憶をたどっていただいたものの、不確かな点も少なくない。そこで、ここでは現段階の推測を交えて記述することにし、明確でない部分はそのことを記した。倉重の長年の活動と70年代の日本美術をふりかえるために、まずはできることから始めたい。


解放の後のノイズ

倉重は蛍光灯を用いた70年代はじめの作品を「物質主義的エクスタジー」または「物質に対する暗黙の内に始められる透明化へのゲーム」と名付けた。「エクスタジー」は魂が肉体の外に出ることを意味する。「透明化」するのは物質と向きあう観客である。つまり、これらのタイトルは物質そのものとしての作品と、主観を排して物質と向きあう観客の関係を意味した。倉重が68年に蛍光灯に関心をもったのは、その光が新聞紙の文字を白く消すのを見たからだという。美術評論家の菅原敦夫は、学生運動の高まりとともに既成の美術制度に対する疑念が深まったこの年に、倉重は白い光に自己の解放を感じたのだろうと論じた•5。以後、自己を消して透明な精神となり、物質と対峙することが倉重の創作の姿勢となった。

68年以降、日本の経済成長は失速し、学生運動は過激化の末に終息した。72年には同世代の活動家が凄惨な事件を起こした。そうした状況のなかで、倉重は作品に観客の意識をかき乱すような要素を取り入れだした。72年10月からのグループ展「今日の作家 ’72年展」(横浜市民ギャラリー)の作品では、むき出しのスピーカーユニットを壁面に付け、下に置いたカセットデッキで海の音を再生した•6。壁面やまわりの床には蛍光灯や鉄のオブジェを置いた。さらに、その脇にステレオを置き、観客がビートルズなどのレコードを自由にかけられるようにした。これらの音は精神と物質の間にノイズとして割りこんでくるものだったと考えられる。しかし、倉重はこのときまだ自分が何を問うているのかを十分に理解していなかったという。

73年3月に田村画廊で開催された個展「OTOBAI」では、会場の床一面にグリースを塗り、奥に発電機と沃素灯(ハロゲンランプ)を置き、観客が入れるようにいくつかの鉄板の足場を敷いた。沃素灯の熱でグリースから煙が出て、部屋に充満した。さらに、会期中毎晩、画廊のまわりを回るようにオートバイを走らせ、街中に発煙筒の赤い煙を漂わせようとした。しかし、オートバイはすぐに警官に止められた。画廊を訪れた警官はたちこめる煙を見て、沃素灯を消させた。煙、臭い、騒音、そして社会と、さまざまなノイズが作品のなかに入りこんだ。

トラブルが続いた「OTOBAI」の後、倉重はいったん佐賀市の実家に戻り、東京と佐賀を往復する生活を続けた。73年の夏には実家やその工場で、撮影役の友人だけを前にいくつものパフォーマンスを行った。写真が残っているのは次のようなパフォーマンスである──ドリルで電球を破壊する(fig.1)、かけたままのサングラスをドリルで破壊する(fig.2)、ドリルで本に穴を空ける(fig.3)、身体に電流を流す(fig.4)、音楽を聞く(fig.5)、本をさかさまに読む(fig.6)•7。最後の二つは田村画廊でのパフォーマンスの原型だろう。また、同時期に湘南海岸でパフォーマンス《目と耳をふさぎ、そして海を想像する》が行われた(fig.7)•8。倉重がこれら70年代前半のパフォーマンスの意図を語ったのは近年のことだった。その言葉について考える前に、72年から続く苦悩に育まれた成果と言うべき、本論考の冒頭でふれた展示を見ておく。


田村画廊での1974年の個展における七つのパフォーマンス

倉重は田村画廊で1974年8月5日から11日まで開催した個展において七つのパフォーマンスを行った。パフォーマンスに使用する道具すべてが会場に展示され、パフォーマンスのインストラクションを書いた紙も掲示された。インストラクションの文章は展示中に何度も修正され、紙が貼り直された。さらに、展示には複数のテープレコーダーが置かれ、海の音などを再生したようだ。パフォーマンスはおそらく午後5時に始まり閉廊時間の7時まで行われた。

パフォーマンスの日付、タイトル、道具、インストラクションは次のとおりである。記録に残されたタイトルとインストラクションは複数のヴァージョンがあるものの、私が便宜的にひとつに再構成した。そのさい送り仮名を正したり、読点を挿入したりした。


8月5日 《鏡を見る》(fig.8) 鏡

画廊空間の壁面の、目の高さの位置に鏡をとりつける。鏡は画廊空間の状況と、鏡の奥行を映しだしている。そして、鏡の表面に映しだされている画廊の状況と奥行と自己を見ることができる。私は鏡の前に立ち、目と目が合うようにする。鏡に映っている画廊の状況と私と鏡の奥行が見える。しかし、私は映っている状況と私と鏡の奥行を見ないで、鏡それ自体を見る。絶対に鏡のもつトリックにだまされないようにする。そして、鏡自体の物質状況を見る。



8月6日 《画廊壁面の一部分をなでる》•9(fig.9) ガムテープ

画廊空間の壁面の一部分を選び、そこにガムテープによって約20センチ平方ぐらいの四角形のワクをつくる。それは壁面の一部分を形成している。そして、私の手のひらによって、その部分をなで、そしてこする。手のひらは摩擦によって支障をきたす。手とその部分は熱をもってくる。そして、痛みを感じる。そのことによって、私の意識は四角形の部分に移行する。その四角形のかぎられた状況だけが意識されてくる。その行為は、四角形に区切られた部分に何か変化があらわれたときに終わる。



8月7日 《本をさかさまに読む》•10 本

人間は本をまっすぐ向けて読む。それをさかさまに読む。本はまっすぐ読むと読みやすい。ある形態ができあがって、そこに慣れが生まれてくる。そういう慣れを止めて、行為し、喚起の可能性と期待をもつ。



8月8日 《ひそみ、そしてかまえる》 板、ダンボール(fig.10)

画廊のコーナーにひそみ、そしてかまえることのできる空間を木とダンボールによってつくり、配置する。そして、そのなかに入る。ひそみ、そしてかまえるということは、何かに対しての恐れとしてあらわれてくる。そのことを媒介として画廊内の物質状況と外界の音、時間、そして空間等を見る。しかし、それらはただたんにそこに在るだけであるという思考が生まれ、そして始まる。それは私自身を支配し、私までもその場所にただたんに位置づけられているだけであるという不安が生まれてくる。しかし、私はそれらに対してひそみ、そしてかまえていることを意識する。そして、ひそみながらそれらを見る。そして、それらに向かってかまえる。すなわち画廊内の物質状況と外界の音、時間、空間等に対してひそみ、そしてかまえている自分の意識と視覚だけがそれらの中にくいこみ、そして新しく思考する。



8月9日 《自分と同じ長さくらいの物体をならべ、それと平行に横になる行為》 枕木、シート(fig.11)

二つの物体はできるだけ私と同じ長さをもつものとする。画廊の床に二つの物体をできるかぎり平行に並べる。私は平行に並べられた物体と同じく、できるだけ平行に伏せる。そして、平行に並んだ物体をながめる。物体と私は平行に並べられたことを共通点としてもつ。そのことによって、状況のなかにひきこまれる自分とそれに反発する自分を意識する。そして、物体と平行に並んで伏せている自分を実感する。不在でないという確かさを感じる。



8月10日 《目と耳をふうじる》•11 安眠マスク、ガムテープ、粘土、耳栓(fig.12)

はじめに椅子に座り、外界の音と画廊の状況を見る。そして、できるだけまわりの状況を見る。用意された材料によって、できるだけ完全に目と耳をふうじる。それから目と耳をとざされたことを思考し、以前に認識したあらゆる状況を打ち消す努力をする。そして耐える。そのことによって、けっして物質状況と一体になるのではない。そのようにして一定時間を行為する。目と耳をふうじたものを取り去る。その行為によってあらためて状況を見つめる。



8月11日 《音楽を聞く》 音楽、テープレコーダー、カセットテープ(fig.13)

過去において私の生きた時間を記録する曲を選んで、カセットテープに録音する。そして、その前に座り、それらの音楽を聞く。それらの音楽によって、私は過去のことを思い出したり、なつかしくなったりする。そのことによって私の意識は過去に行こうとする。私はそれに対して、いまの時間を意識してそれらを打ち消す。そして、カセットテープから流れる音楽だけを聞く。その音楽のもつ過去の意味性をすべて打ち消し、その音楽自体を聞く。



当時、この展覧会について美術評論家の平井亮一と谷新が展評を書いた•12。谷はこの展示をごくプライベートな問題提起と考えた上で、行為が重視されているのにその意味が見えてこないこと、行為の残骸である物質が最初に見えてくることに疑問をもった。平井は谷の問いに応じて、この展示は観客に行為の追体験を誘い、観客の非日常的な知覚を活性化するのではないかと論じた。また、観客に追体験を誘うことを「代行性」と表現した。


奇妙な認識論

倉重は2015年6月末に谷新から手紙を受けとった。倉重が瀬戸内芸術祭に出品した作品の詳細についての問い合わせだった。手紙には先の展評のコピーが同封されていた。返信のなかで、倉重は70年代前半の活動をふりかえった。
彼はまず68年から72年までについてこう述べた。

この頃に作っていた作品は、世界をイメージで捉え、それを再現して作っていました。現実を類推的に捉え、そのイメージを再現することは、自己内部の問題でしかなく、アートとしての文脈には何の関係もないような気がしました。そこで自己の崩壊が始まりました。そのような中で新しい自己を作り出そうと思って、いろいろと「模索」しました•13。


自我を消して物質と向きあうという倉重の姿勢は、物質そのものとしての作品と、物質をそのまま受けとる精神を想定した。この関係を反転させて作品の制作に当てはめれば、精神のなかのイメージと、イメージをそのまま再現する作品という関係になる。彼はこうした想定に次第に疑問を抱いていった。

先の引用に続き、彼は「1973年〜1974年はまさに私にとって転換期であったように思います」と書き、1974年の個展についてこう語った。

私を見直すための作業、新しい自己を作る為の実験、その為には他者性と代行性が必要でした。もう一人の自分、二重人格的な自分(もう一人の他者になるための実験)でした。[中略]見ることと見られること(意味する事と意味されること)の意味を実験することが必要でした。その為にイベント(出来事)を計画する必要があった。


倉重は「この社会や現実に参加する」ために、物質と精神の間にあるもの──感覚、感情、記憶、身体、言語、道具など──が、どのように両者のあいだに入りこむのかを確かめる必要があった。そのために実行されたパフォーマンスは、観客にとってだけでなく倉重にとっても行為を追体験するための「代行」だった。実際に狭い空間で身がまえなくても、音楽が喚起する記憶にあらがわなくても、これらを追体験できるように上演されたのだ。

この時期に倉重は精神と物質、主体と客体、認識と感性をめぐる多くの著作を読み、ノートをとった。75年10月に『エピステーメー』創刊号が出版されたとき、自分と「同じような思考を持った人たちがいる」と感じたという。美術家になろうと考えることをやめた時期も、倉重は自らの認識論を手にするために格闘した。しかし、彼はその結晶とも言うべき74年のパフォーマンスが笑いをさそう奇妙なものだとも思っていた。倉重は谷への手紙に老子の言葉を引用した。「笑われないようなものには道としての価値がない。我々は冗談を理解した瞬間、悟りを体験する」•14。

[註]
1|倉重光則から谷新への手紙(2015年7月)より。
2|「APPLE IN SPACE」については本カタログに収録の吉岡まさみ「倉重光則のファンタジー」(30頁)を参照。
3|例えば、74年の田村画廊での個展は「鏡に写るものからのイメージを消し鏡を見る」と記されてきた。しかし、後に示すとおり、このタイトルは個展で行われた七つのパフォーマンスのひとつを指している。
4|筆者による倉重へのインタビューは2019年12月(神奈川)にはじまり、継続的に行われた。
5|菅原敦夫「倉重光則──白光のリアリティ」『日本の現代美術』丸善ブックス、1995年、85頁。
6|本作品は記録が乏しく、不確かな点が多い。
7|これらのパフォーマンスの記録にはタイトルが記されていなかった。このとき穴を空けた本は『ロートレアモン詩集』であり、また倉重は74年6月にカミュ『幸福な死』に穴を空けるパフォーマンスを行った。
8|写真には「1973」とメモがある。服装から考えて、春か秋だろう。パフォーマンスの順番と間隔から推測して、73年の秋ではないか。しかし、74年の可能性もある。
9|菊井崇史「光を生きる光、ふれる鬩ぎあいを射して」(倉重光則『未完の地図』ギャラリー現、2014年、頁数記載なし)には、30センチ四方の枠を午前10時からこすったとある。写真で確認するかぎり、20センチほどが正しいだろう。
10|このパフォーマンスは七つのなかで記録がもっとも少なく、不明な点が多い。
11|このパフォーマンスの最中に、海の音や音楽の録音を会場に流したかもしれない。
12|平井亮一、たにあらた「展評東京」『美術手帖』第387号、1974年11月、236-237頁。



[図版]
fig.1 ドリルで電球を破壊する 1973年
fig.2 かけたままのサングラスをドリルで破壊する 1973年
fig.3 ドリルで本に穴を空ける 1973年
fig.4 身体に電流を流す 1973年
fig.5 音楽を聞く 1973年
fig.6 本をさかさまに読む 1973年
fig.7 《目と耳をふさぎ、そして海を想像する》 1973年ごろ 安眠マスク、ガムテープ、粘土、耳栓 湘南海岸
fig.8 《鏡を見る》 1974年 鏡 田村画廊
fig.9 《画廊壁面の一部分をなでる》 1974年 ガムテープ 田村画廊
fig.10 《ひそみ、そしてかまえる》 1974年 板、ダンボール 田村画廊
fig.11 《自分と同じ長さくらいの物体をならべ、それと平行に横になる行為》 1974年 枕木、シート 田村画廊
fig.12 《目と耳をふうじる》 1974年 安眠マスク、ガムテープ、粘土、耳栓 田村画廊
fig.13 《音楽を聞く》 1974年 音楽、テープレコーダー、カセットテープ 田村画廊